タイトルに掲げた「善人の沈黙」と言う言葉は、私の造語ではない。どこかで聞いたか読んだ記憶だと思ってネットで検索したら、アメリカで1968年に暗殺されたキング牧師の言葉だった。恐らく、善人の沈黙こそが社会における最大の悪である、そんな意見がこれに続くのだろう。

 その前提には、まず「善人よ沈黙するな」があり、次いで善人よ行動せよ、善人よ声を出せ、善人よ武器をとれ・・・、つまり黙っていないで何らかの行動に移せ、がこれに続くのだろう。そして、沈黙することは現状を承認したことになるのだと警告したいのだと思う。

 そしてこの言葉は、単なる権威に対する抵抗にとどまらず、場合によっては政治に対する不満の解決や改革の要求にまで及ぶのではないかと思う。しかもその沈黙に次ぐ行動を要求されているのは善人である。「善人って誰だ」、と問われるとその答えに窮するが、恐らく大衆とか市民とか国民などと言った、普通の人と同じ意味だろうと思う。

 つまり、「善人」と言う言葉が意味しているような、「善」そのものがその人に含まれている必要はないような気がする。「善」という言葉に代えて、例えば「普通」と言う言葉に置き換えたとしても、そこにそれほど矛盾は感じない程度の、軽い意味なのだと思う。「善人」とは必ずしも「善人」である必要はなくだろう。それは悪人の暴力より更に悪いという言葉からも分かる。単に「悪人でない者」が善人なのであり、「普通人」であることだけで足りる、そんな気がしている。

 そしてここで言われる善人には、少なくとも「大衆」としてある種の集団的な力が必要となる。つまり、個人意思としての沈黙からの脱却ではなく、「多数であることの力」を持つ集団の意思でなければならない。

 もちろん「沈黙するな」は個人に向けられたメッセージである。でもそのメッセージは、個々人に向けられた個人行動の発露だけを求めているメッセージではない。個々人の集合体である「大衆よ沈黙するな」が背後に隠れている。

 それはなぜか。なぜなら行動の成果は、多数であることにしか求められないからである。善も普通も、単独では力にならないのである。

 ここまで考えてくると、この「善人よ沈黙するな」のメッセージには、もう一つ別の重大な意味が隠されていることに気付く。なぜ沈黙の否定が、善人に向けられたメッセージなのかも分かってくる。

 それは、人は善人であればあるほど、行動しなくなるからである。沈黙するのが善人であり、その沈黙の程度は善人の程度が強まるほど強まるからである。

 極論かもしれないが、行動しないのが善人であり、沈黙すればするほどその人は善人になれるのかもしれない。多くの人は、心のどこかで沈黙することが善人の要件だと、頑ななまでに信じているようにも思える。

 なぜなら、人は多くの場合忍従を強いられる立場に置かれることで生延びてきたからである。そしてその忍従は沈黙の中でのみ育つことができ、密かだけれど確実に生き延びることのできる手段だったのである。まさに、沈黙こそが生延びるための必須の滋養だったのである。もしかしたらそれでしか生延びられなかったのかもしれないのである。

 その力が自然の破壊力にしろ、はたまた権力であるにしろ、人は自分より強い力には忍従でしか対抗できなかったのである。そしてその生延びることを支えてきたのが沈黙だったのである。忍従と沈黙はまさに表裏一体であり、沈黙なくして忍従そのものが成立することなどなかったのである。

 力のないことは、弱いことである。武力にしろ権力にしろ経済力にしろ、何なら知識や芸術的な能力にしろ、力ある者はその力を使うことができる。だが力を持たない者が生延びるには、力に耐え力ある者から逃避することでしか対抗する術がなかったのである。

 そして力のない者は常に多数であった。もしかしたら、圧倒的多数であったかもしれない。あえて言うなら、だからこそ力のない者を善人と呼ぶのである。善人とは沈黙の中に埋没することでしか生延びられなかった、力なき者の集団なのである。

 そして沈黙する行為、もしくは沈黙することを当たり前とする集団を「善人」と呼んだのである。だから「善人」とは善人なのではなく、単に「悪をしない」集団であり、更に言うなら「悪をするだけの意志力の持てない」、「悪のできない」集団を意味しているのである。

 そこに「動け」の指令が下る。できない、やったことのない、やってはいけないと思い込んでいた、そんな指令が下るのである。しかもその指令は「善人よ・・・」という言葉で始まる。

 自らを善人だとは思っていない者に向かって、「善人よ立ち上がろう」と鼓舞するのである。そんな鼓舞が、果たしてどこまで、呼びかけられた人々の心に届くだろうか。

 そして、その行動が「声をあげること」だとしたとき、世界の難民や虐げられた人々の群れが、どこまで報われるのだろう。「声をあげるだけで腹が減る」、こんなジョークがまともに聞こえるほどにも、上げた声は空に消えていくのである。そして空腹と飢餓と絶望だけをそこに残すのである。

 考えても見て欲しい。沈黙もまた普通人が生延びるために選択した、貴重な教訓だったのである。そして、その中で人は生延びてきたのである。今でもその方法で、生延びることができるのである。これからも・・・。


                        2020.9.20        佐々木利夫


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善人の沈黙