学徒出陣について書きたかったわけではない。最近のニュースを見ていて、ふとこの言葉が浮かんできた。ニュースとこの語とに何の関連もないことは分っている。もしかしたらこんなタイトルを思いつくことそのものが非常識なのかもしれないと、自分でもどこかで思っている。
コロナ騒ぎに大混乱の日本列島である。それがあたかも私には、学徒出陣みたいな状況に感じてしまったのである。政治家や専門家たる識者の発言やニュース番組のアナウンサーの話し方までが、なぜかそんな風に聞こえてしまったのである。
コロナ感染者数の累計は世界で8300万人を超え、死亡者数は183万人にもなろうとしている(1月3日、WHO)。日本でも感染者は25万人に近く、死者数も3679人と伝えられている(1月4日)。政府は数日以内(1月7日にも)に、東京を含む周辺一都三県に緊急事態宣言の発出を検討しているという。
まさに非常事態なのだから、なりふり構わずにコロナ対策が急務だということは分る。分った上で、こんなことを言うのは変だとは思うけれども、どうしてもこんな思いが消えていかないのである。戦争末期の日本の姿である。このコロナ騒ぎに負け戦に翻弄される戦争末期の日本の姿が重複してしまうのである。
非常事態なのだから同じような混乱が見られたところで、特に問題視する必要はないのかもしれない。そんな思いに関連付けること自体が、騒ぎ過ぎではしゃぎ過ぎだよと言われてしまえばそれまでかもしれない。
でも、でもである。病院が足りない、病室が足りない、医師が足りない、看護師が足りないと、日本中が大騒ぎである。確かにこの事態は大変である。感染者が入院できないまま自宅に待機させられるようなケースが現実に起きているという。そうした現象はコロナ患者だけではない。それ以外の患者にも影響しているのだから、ことはまさに非常事態である。
まだ医療崩壊とまでは言われていないけれど、それは言わないだけかもしれない。実態は医療崩壊と同視してもいいほど、医療体制は逼迫しているのかもしれない。それはつまり、「医療崩壊」と言ってしまったら、医療に携わる者そのものが責任放棄したことになると、それぞれの立場にいる人たちが、密かに思い込んでいることを示しているようにも感じられる。
日本の医療体制は、既に崩壊しているのかもしれないのである。もちろんそれは、全面的な崩壊ではないだろう。単に「これ以上の患者は受け入れられない」という程度の意味であって、現在受け入れている患者の治療まで放棄されていることを言っているのではあるまい。
でもそれもまた医療崩壊であることに違いはあるまい。「受け入れられない患者がいる」、「受け入れられない状態が発生した」、そのことだけで、医療は崩壊したことになるのだと思うからである。
そしてその事実に私は、「戦争に負けそうだ」、「兵隊が足りない」と、国(もしくは軍部)が考えたことをどうしても重ねてしまうのである。この戦争に日本が負けるかも知れないとは、多くの国民が予想していたことである。その予想を口にできたかどうかはともかく、内心では負けそうだと理解できていた。
それでもカミカゼを信じた者がいた。戦争は戦いである。戦争の良否や正義を論じたところで、それが勝敗に影響するものではない。精神論が少しも力を持たないとは思わないけれど、経済力を背景とした軍事力が戦争を決するのである。
敗戦が色濃くなるに従い、「負けそうだ」「兵隊が足りない」の行き先は、「一億火の玉」という標語になった。一億とは数ではなく、日本全国民の意味である。それはそのまま、「本土決戦」として日本の国土があげて戦場になることを意味していた。やがてそれは「一億玉砕」へと代わり、赤ん坊まで含めた全国民が棒切れでも竹やりでも手にすることで、全精力を鬼畜米英打倒に傾けることを意味していた。そしてそれにより「日本は勝てる」と信じたのである。
具体的な内容は知らないけれど、学徒が徴兵され中学生の少年飛行隊が募集された。主婦を交えた竹やり訓練が行われ、まさに日本は本土を戦場とし、日本人のことごとくを兵隊とみなす総力戦を企図したのである。
やがて米軍の沖縄上陸、日本各地への空爆、そして広島長崎を経て日本は負けた。こうした「しゃかりきになる」ことに、どこか私は危機感を感じるのである。一億総力戦みたいな国を上げての右向け右の行動に、コロナに立ち向かう日本の姿が重なるのである。そしてそれがどこか学徒出陣や少年飛行隊のような、目隠し突進している危うさに似ているように感じてしまうのである。
コロナ騒ぎだけがそうだと言うのではない。だだ、世界中が一つの方向だけに向いてしまうことに、底知れぬ恐れを感じるのである。根拠はない。理屈もない。もちろん証拠もない。それでも全員賛成だけの世界が、私には怖いのである。そしてそれが、どこか間違っているように感じられてならないのである。
そんな行動の選択は、いつかどこからか、やり直しの効かない「しっぺ返し」を招くような気がしてならないのである。そうした「やり直しの効かない」結果が、とてつもなく不安なのである。
2021.1.6 佐々木利夫
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