どこにも批判するような内容を持っているわけではない。でもこの言葉が総理大臣から発せられたとき私は、「あぁ、そうなんだ。政治って結局は抽象論を繰り返すしかできないんだ」と思ったのである。先月始まった通常国会における菅総理大臣の所信表明演説での言葉である。

 言ってることが分らないとか、空疎だとか、空論だなどと思ったわけではない。むしろ、国会での演説なのだから、抽象的な表現にならざるを得ないだろうと、理解できたつもりである。

 にもかかわらず、そうした抽象論を繰り返すしかない国会と言う場そのものに、なんとなく失望と言うか期待感の喪失みたいな気持ちを抱かされたのである。かつて憲法の講義で学んだ国会の権能やあり方と、現実の政治との乖離がそこに見えたような気がしたからである。

 タイトルの意味は明白である。グリーンとは自然のことであろう。環境破壊や地球温暖化など、言い方はともあれ地球は今や壊れかけていると言われている。その地球を「政治家も守ります。皆さんも一緒に守りましょう」、そうした意図がこのグリーンと言う言葉の中に秘められているのだろう。

 また、デジタルとは数字の意味だが、内容的にはコンピューター社会の発展を意味しているのだろう。そして「我が国の経済発展」の意図を秘めている。そうしたデジタル政策が、全てを解決できるかどうかは疑問である。それでもデジタル社会は、通信ネットワークを始め目をみはる速度で私達の生活の中に入り込んできている。

 壊れかけている地球がどうしたら活性化できるか、それを解決するのが0私たち政治家の目的だと、総理大臣は考えたのだろう。

 そのことをどうこう言いたいのではない。我が政権は世界平和をテーマに活動しますでもいいし、コロナ退散でも、国民福祉でも、犯罪のない社会でもなんでもいいだろう。恐らくどんな政治家だって、国民受けのするだろうスローガンを掲げるのは、選挙と言う形で当選が決まる制度からして当然のことだろうからである。

 だから総理大臣が自然とコンピュータ社会を自らの施策として取り上げたとしても、なんら異を唱えるつもりはない、ただ、スローガンが余りにも抽象的であることは、それだけ裾野の広いことを意味し、包括過ぎる宣言は、結局成果の伴わない結果を産むことになるような気がするのである。

 包括的な命題は、どんな成果も包括してします。それは広大な宣言であるほど、結果としての成果が伴わなくとも「成果あり」と自賛できるからである。

 例えば「世界平和」を掲げよう。何が広大無辺かは人により違うだろけれど、このテーマが永遠で理想の彼方にあることくらいは分るだろう。そして「世界平和」が実現(何が世界平和なのか、どこまで行ったら世界平和と言えるのかはむずかしいとしても)したとするなら彼が「私の掲げた世界平和を、私が実現した」と主張することができるし、そのことを否定する人もいないだろう。

 でも一方で、「世界平和などありえない」とする主張も同じように成立する。つまり世界平和とは、主張することはできても永久に実現することのない架空の主張だと言い切ることも可能である。

 ところで、この「実現させる」、「実現不可能」の両者を、同時に成立させることは可能である。100点の世界平和、0点の世界平和だけを考えるなら、確かに両立は不可能である。でも、そこに「今より少し平和」と言う概念を導入すると、5点の平和、7点の平和などの成立が可能になってくる。

 そうしたとき、私は僅か1点かもしれないが平和に貢献した、と朱することは可能である。

 それと同じように、この「グリーンとデジタル」の宣言も、どんな結果(もしくは失敗)も自らの成功として主張できる可能性をその中に含んでいる。つまりは、どんな実行結果も失敗ではなかったとの宣言にすることが可能だということである。

 だからこそ、成功など及びもつかない広大無辺な夢物語に対しても、国の予算や人材を無定量に投下できるのである。そして「二酸化炭素の減少はできなかったけれど、太陽光発電量を一昨年のに割り増しにすることができた」と、自画自賛できるのである。己の施策の成果として主張できるのである。

 デジタルも同じである。どんな結果にも、「思い通りにはならなかったけれど、○○の面ではそれなりの成果があった」と主張できるのである。そしてそれは決してウソではないとは思う。

 ウソではないけれど、結果としてウソと同じことになっているのではないかとの反省は、決してしないのである。成功した部分のあることだけが、宣言した者の成功譚として自賛すればいいだけなのだから。


                        2021.1.31    佐々木利夫


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グリーンとデジタル