熱心に見ているというほどではないが、テレビは日常習慣になっている。しかも今は地上波に加えてBS放送まで含めると多くのチャンネルがあり、退屈することは少ない。

 それでもスポーツ番組が重なったり、どこを回してもコマーシャルだったり、時に有料放送への誘導などが邪魔になって、見たい番組に行き当たらないことがある。そんなときに、ふと放送大学にチャンネルを合わせることがある。

 今日(2020.12.27、日曜日)の朝9:00〜9:40の放送大学は、元放送大学三重学習センター所長 上野達彦の「わたしの刑法学研究を顧みて」と題するスペシャル講演であった。「三題噺」という単語がこの講義の中に入っていたわけではない。ただ、三つのテーマを掲げて話が展開されていたことから、つい落語の三題噺とゴロ合わせでこんなタイトルになってしまった。

 彼は恐らく、どこかの大学の刑法学者だったような気がする。そして自分自身の過去を振り返って、刑法研究に生涯を費やしてきた己の人生を、特別講義に託したのであろう。講義のテーマの一つは、「正義」であった。人の生きる規範を法と道徳に分け、そこから正義の意味を探ろうとするものであった。

 彼はその足がかりとして、刑法分野から三つの項目を受講生に提示する。一つは東日本大震災に寄せた母娘問題、二つ目は胎児と殺人、そして三つ目が電気窃盗であった。

 @ 一つ目は緊急避難である。東日本大震災で津波に遭遇した母娘の実話だという。娘は助けてと叫ぶ母の声を耳にしながら、このままでは自分も母も共に死んでしまうと思い、咄嗟にそれまで握っていた母の手を離してしまう。その行為が刑法で罰せられることは、恐らくないだろう。だが、私が母を殺したのではないかとの思いは、いつまでも娘の心に残ることだろう。何が、そしてどちらが正義なのか。

 A 二つ目はいつから人になるかである。胎児は人ではない。だから中絶は殺人ではなく、堕胎罪の分野である。また、死体も人ではない。死体を傷つけたり埋めたりしたとしても、損壊罪や遺棄罪に問われることはあっても、殺人罪になることはない。死体は人ではなく、単なる「もの」だからである。

 B 三つ目は窃盗における、「財物」とは何かである。電気はエネルギーであって、「形ある物体」として存在しているわけではない。形のない単なる「エネルギー」に、果たして「財物を窃取した」として窃盗罪が成立するかどうかの問いかけである。

 さて第一の緊急避難であるが、これは法律の問題ではないかもしれない。自分の死か、自分以外の死かの選択は、それが「選択」という範疇に入った時点で既に法律問題から乖離しているように思う。

 私は高卒の18歳で、税務職員としての養成所である札幌の税務講習所へ入所した。そこで一年間の研修を受けたときのことである。税法以外に憲法や民法などの講義もあった。その時の刑法でこの問題が提起されたことを、今でも記憶している。もちろん東日本大震災はまだ発生してしていなかったけれど、この問題は「カルネアデスの板」というテーマで呈示されたと思う。

 難破して海に放り出された二人の男の物語である。目の前にあるのは難破した船の残骸だろうか、板切れ一枚である。そしてその板切れ一枚は、一人の命を支えるのがやっとである。二人が一枚の板切れにしがみついたら、二人とも溺れてしまうと言う。さあ、あなたならどうする、がテーマである。

 第二のどこからどこまでが人なのかの問題も、同じく研修所の刑法の講義で提起された。当時は優生保護法と言う法律があって、一定の条件の下ではあるがこの法律での妊娠中絶が認められていた。刑法には堕胎罪の規定があり、胎児は人ではなく殺人罪は適用されないことは法文上も明らかであった。民法の相続の規定では、「胎児は既に生まれたものとみなす」とされていたから、刑法との考え方の違いについて興味を持ったことを記憶している。

 独立呼吸説、一部露出説、全部露出説など、胎児から人になる過程がどこからかについての講義を受けた。まだ妊娠や出産にはまるで縁がなく、そうした話題にも疎かった身である。妊娠、出産、分娩、中絶などのいささか生臭い話題に、猥褻じみた感触を受けたことを覚えている。でも、どこから胎児が人になるのかの知識は、この歳になってもまだきちんと理解できていない。私のこの分野における勉強が、まだ不足していることによるものなのだろうか。

 まだ脳死などの話題はなかったので、死の定義については特に学ばなかったような気がする。心肺停止だけが死であるとする見解は、恐らく当時は自明だったのかもしれない。

 第三の形のない電気に窃盗罪が適用されるかは、地裁で有罪、高裁で無罪を経て最高裁で有罪、つまり電気のように無形のものであっても、管理可能なものは窃盗罪が成立するとする判断がなされた。

 判決を受て刑法が改正され、「この章(第三十六章 窃盗及び強盗の罪)の罪については、電気は、財物とみなす。」との規定が加わったことで、この問題は最終的に解決した(二百四十五条、明治40年改正)。刑法史的にはエポックなのだろうが、時間的には私の生まれる以前の、昔々の事件であった。だがこれも研修所の刑法の講義で、始めて学んだのである。

 はからずも見た、80歳を過ぎてからのテレビでの刑法講義が、何と60年以上も昔の講義と同じテーマを繰り返していた。その講義はある教授の「スペシャル講演」で、しかも「私の刑法学研究を顧みて」を内容とするものであったから、もしかしたらその教授の退官記念じみた内容を持つ講座であったのかも知れない。

 だとするならこの放送は最近のものではなく、過去の録画、もしくは再放送である可能性もある。だから場合よっては数年前の録画かもしれない。だとするなら、「60年前の講義と同じ」と評価するのは間違いだろう。

 それでも私が研修所で学んだ時期とこの放送が録画された(この教授が講義した)時期とに、50年以上もの開きがあることは間違いないだろう。

 そして思ったのである。少なくともこの問題については60年間、少しも進んでいなかったと思ったのである。60年前とは、私達の生活にやっとモノラルのテレビが入り込んできた時代である。時代的にはもっと以前から存在していたのかもしれないけれど、私達の時代はそうした目まぐるしい変化の渦中にあった。

 カラーテレビからパソコンを経て携帯電話にまで時代は進化し、月面着陸から火星探査まで進んだ時代は、宇宙旅行がSFではないことを告げている。こんなにも凄まじい変化の最中にあって、人はそれでも60年くらいでは変らないことをこのテーマは告げているのである。

 世界は相変わらず戦争の渦中にあり、人種差別は様々に形を代えて少しもなくなっていない。数億年も前から存在したであろうコロナウィルスに世界が翻弄され、独裁政治による国民支配は少しも変っていない。人はどこからきて、どこへ行くのかの問いかけは、いまでも未解決のままである。

 人の技術が遺伝子組み換えにまで届いたことで、人は神になったと豪語する者もいる。だが、石のぶつけあいが原子爆弾に代わろうとも、白人至上主義は分断という表現に言葉を代えただけで少しも変らない。正義、戦争、愛、憎しみ、殺戮や差別などなど、人は果たして進化してきたのだろうか。



                          2020.12.29    佐々木利夫


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刑法三題噺