加齢のせいなのか、それとも怠惰が身についてきたからなのか、段々と本を読まなくなってきた。きっかけははっきりしている。一昨年あたりから気になりだした、心臓と目の不調のせいである。心臓の不調が直接読書の障害になるようなことはなかった。ただ胸が苦しいときは読書の意欲などどこかへ吹っ飛んでしまうし、昨年一月の入院が二ヶ月以上にも及び、私が興味をそそられるような本が、病院そのものにそもそもなかつたことが直接的な要因である。

 それに加えて手術やベッドでの生活が、運動や食事など生活全体としての気力・体力を喪失させ、それに引っ張られるように読書意欲も影響を受けることになった。食事すら美味しいと思えない環境下で、本を読む気などさらさら起きなかった。

 それに白内障が拍車をかけた。白内障の自覚は以前からあったのだが、読書に影響を与えるほどではなかった。心臓のほうは手術を終えて退院したのだが、白内障は様子を見ましょうということで外来通院になった。眼鏡をかけることで新聞などは読めるのだが、ハードカバー一冊といった、一種の区切りのある挑戦には、新聞とは違った気力が必要になる。

 読もうとする気力、一冊読み終えるぞとの気力がないと、読書は難しいのである。しかも私の読む本は、傾向こそランダムだけれど、けっこう専門書的な方向を向いている。つまり。とっつきにくい傾向があるのである。

 退院して間もなく、20数年構えていた税理士事務所を閉めることにした。これにより読書機会が更に減ることになった。それは電車通勤がなくなったからである。電車の中での読書と言うだけでなく、帰宅時に少し早めに駅へ向かい、待合室で2〜30分読んでから自宅方向への電車に乗るというこれまでの習慣がなくなったからである。

 ところで自宅は夫婦だけの二人住まいなので、一部屋空いている。そこを事務所と同様の空間にすべくパソコンやテレビや机などを置くことにした。これまでの自室と茶の間から、新しい自室に毎朝「行ってきます」とばかり数メートルほど移動する。僅か数メートルの移動にしろ、ここは立派な我が空間である。

 そして10月に白内障の手術を受けた。手術は成功して、視力はすっきりと戻ってきた。ところが、私には白内障のほかに緑内障が同時進行していた。緑内障は進行を停める事が精一杯で、治らないという。確かに視野が今までとは違う。これまでは白内障の影に隠れて気付かなかったのだが、視野が欠けてきている。これも読書意欲の妨げになる。

 そうなるとますますテレビやパソコンに目が向いて、なかなか読書する気にならない。しかも決定的なことは、図書館がなくなって新しい本が探せなくなってしまったことにある。これまでの事務所では、歩いて10分ほどのところに図書館があり、インターネットで市内の蔵書を検索してその図書館まで出前してもらえたのである。つまり事務所廃止で、事実上図書館は使えなくなってしまったということである。

 それではと、電子図書館を利用することを思いついた。利用できる環境はパソコンでセットできた。電子図書の数は限られているけれど、利用できるようになった。でも慣れていないからなのか、モニター画面で本を読むと言う習慣に体がついていかないのである。読むのが面倒くさくなるのである。そして数ページ読んだだけで、ほったらかしのまま貸し出し期限が徒過してしまうのである。

 どうも私の体質に、電子図書は合わないようだ。今から数十年前に数十冊の図書が収録されているCDを購入したことがある。パソコンに興味があったことから、モニターで本を読むという動作にどことない憧れみたいものがあった。だが、音声のついた読み上げ形式のものは読んだ(聞いた)のだが、それ以外のものはさっぱり手をつけなかったのである。

 「画面で文字を追う」と言う習慣そのものが、私の体質に馴染まないような気がする。それが電子図書館の閲覧にも影響しているらしい。新書版の一冊を借りたのだが、内容が気に入らなかったのではなく、数ページ読んだだけで放棄してしまった。それではならじと再借り入れしたのだが、結果は僅か2〜3ページを増やすだけだった。

 自作のホームページに、「私の読書歴」というコーナーを設けてある。2003年に開設した当時から、ここへ読んだ本を記録している。一行に書名、著者名、出版社名だけを記載しただけの積み重ねなのだが、それでも年間の累積は70冊前後にも及び、それなり「読んだナー」との実感を与えてくれる。

 時には読んだ本から刺激されてエッセイを作成することもあり、読書はそれなり私の楽しみだった。それがここ2年ほど、ぱったり止まったままなのである。つまり本を読まなくなったのである。

 調べてみると、2019年の54冊が2020年にはなんと2冊になり、そして今年はまだ一冊も読んでいないのである。言い訳はたくさんある。図書館が遠くなって読む本がない、白内障で読みにくくなった、などなど、でも自宅の書棚にはまだ読み終えていない本、読んだけどすっかり内容を忘れてしまっている本、再度読み返してみたい本などがまだ沢山残っている。

 つまり、読む本がないと言うのは言い訳で、読む気がないと言うに過ぎないのである。努力しないでも、時間は流れていく、それが現実である。それほど興味のないテレヒ、昔挑戦したファミコンやプレステのゲームなどなど、時間つぶしと言ってしまえばいかにも堕落の感じがするけれど、時間つぶしに努力は要らないのである。それで時間が過ぎていくのである。

 怠惰がどうしょうもなく私自身に染み付いてしまっている、時にそう感じる。努力とか興味とか趣味などと言うのも、実は一種の気力を背景に成立するものなのではないだろうか。

 そしてもう一つ、新しい発見に気付いている自分がそこにいた。なんと怠惰も、「それなり楽しいものだ」と言うことである。


                        2021.2.10    佐々木利夫


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