政治と心なんてことを思うこと自体、ないものねだりなのかもしれないと、心のどこかで分っているような気がしている。そもそも政治の目的とは、大衆の満足に支配者の満足を加えたものの総和である。そしてそれは、多くの場合支配者の個としての満足に傾きがちである。

 しかも「大衆の満足」というのは、多くの場合実現不可能である。支配者が個であることはもちろんなのだが、大衆もまた「個」の集合である。そしてその個々人に、欲望という満足への道程を付け加えると、大衆の満足への欲求もまた際限なく広がってしまう。大衆の数だけ満足が存在し、その満足は拡大する一方だからである。

 日本だけの思想ではないだろうとは思うけれど、日本語には「ほどほど」という言葉がある。100%の満足でなくても、一応の満足で納得する心理である。完全な満足でなく途中であっても、そこを一応の満足として受け入れると言うことである。

 でもそれが果たして満足かと問われるなら、その答えは様々だと思う。「満足か」との問いそのものに、ゴールとしての到達点がきちんと示されていないからである。目的地が100メートル先なのか、それともマラソン大会でまだ24キロも先にあるのか、この「満足レースの質問」には目的地が示されていないという、致命的な欠点があるからである。

 そう考えてくると、政治に満足を求めること自体が疑問になってくる。その著作を私は、直接にしろ翻訳にしろ読んだ記憶がないので、著者の真意を必ずしも理解しているとは言えないのだが、アダムスミスの名言に、「最大多数の最大幸福」というのがある(「幸福論」)。

 考えてみると、最大多数という言葉も矛盾だらけである。組織全体の8割9割を指すとする考えもあるだろうし、組織の過半数という意味だって十分に考えられる。極論かつへそ曲がりをを許してもらえるなら、「私を取り巻く側近で私に味方する者の大多数」という考えだってあながち間違いではない。

 なぜこんなことを考えるようになったかというと、コロナ騒ぎの中で、テレビやネットで発言するマスコミや識者などが、こぞって「政治に心がない」と菅政権を批判しだしたからである。

 好き嫌いで政権を批判するのは間違いだと思う。そうは言っても好き嫌いが表面に出てしまうのは、私達人間の持つ避けられない性である。実は私はこの政権を好きではない。

 だから好き嫌いが表面に出るのは、仕方がないことだと思う。だからと言って、政権が心を持つべきだとも思わないのである。「心って何だ」と問われると答えに困るけれど、少なくとも私は政治は中立であるべきであって、心を持つべきではないと思うからである。

 なぜなら、テレビ報道を見る限り、心とは優しさだけが全面に出てしまっているからである。そんな優しさを心と呼んで、その優しさを人は政治に求めているのだろうか。そしてそれが政治の正しい方向なのだろうか。

 優しさを、個々人の要求に対する理解だといってしまえばいかにも正当な行為であるかのように聞こえる。でも、考えてみると個々人の要求というのは一種のわかままのかたまりである。そこには客観性とか、公平とか、平等などといった他者が入り込む余地はない。

 エゴと言ってしまったら誤解を招くかも知れないが、その個々人が求める優しさとは、「私のための理解」なのであり、それを満足させてくれることが政治に求める満足なのである。つまり、満足とは不公平そのものなのである。

 そうした満足を他者がどこまで容認できるかは、私は大きな疑問だと思う。それを妬みとはいうまい。でも、例えば今回のコロナ騒ぎにおける非常事態宣言でも同じようなことが起きている。コロナの収束を願うことそのことに関しては、恐らく全員に共通する思いだろう。

 にもかかわらず非常事態宣言に関する反応はまさに様々である。ある人は遅きに失したと言い、ある人はやむを得ないと承認し、またある人は全員を一律に規制するのは非常識だと言う。そしてそれは結して抽象的な意見ではなく、それぞれ我が身に照らし合わせての反応である。

 そうした意味でその反応は、それぞれが抱いている幸福感、望んでいる方向感に根ざしている。近隣者に感染者が近づいていると感じている人は政府の対応は後手後手だと主張し、当面現在の生活が維持していけると思う人は止むを得ない承認する。そして飲食店の経営者などは、感染防止に努力している程度、店舗維持の経費の多寡など、個別に判断すべきであって、一律の規制は問題だと主張する。

 恐らくそれぞれが正しいのだろうと思う。つまりは、満足とはかくも多様であるということである。積極的な賛成から、已むをえないとの諦め、そして反対意見まで、人はそれぞれに多様な意見を持つ。私もそうした連続する意見の中の途中に引っかかっている。

 そして思うのである。政治は国民の満足など考慮してはいけないのではないか。そんなことを考えるからこそ、時にその判断がポピュリズムと呼ばれて、迎合的な間違った方向へと向かうのではないか、そんな風に思うのである。

 それとも、それとも、政治は「信ずる道を進む」という力を失ってしまっているのだろうか。大衆に迎合するしか方法がないほど、政治家には信念がなくってしまったのだろうか。

 「心のない政治」と書いてしまうと、とんでもないことだと批判されるように感じる。時にそんな思いは間違いだと言われそうである。でも私はどこかで、政治に心なんてあってはいけないのではないかとも思っているのである。非情で中立、それが政治の目的のように思えてならないのである。むしろ、理想であるかのようにも思えるのである。





                        2021.1.15    佐々木利夫


             トップページ ひとり言 気まぐれ写真館  詩のページ
 
 
 
政治と心