BSテレビの放送大学を見る機会があることについては、前回のここにも書いたばかりである。またその多くが棒読みによる講義が多く、そのスタイルに辟易していることも前に書いたことがある。

 そうした反省があるからなのかこの頃の放送は、講師の一方的なしゃべりから少し離れるような傾向にある。それは対話者を相手に講義を進めていくスタイルである。この形式は、下を向いて一方的に読み上げるだけの講義よりは少しは変化があって、いい傾向だなとは感じている。

 つまり一方通行ではなく見かけ上は対話になっていることで、外形上は棒読み講義からは離れているように見えるからである。それはそれでいいのだが、今度はその対話システムが気になりだしてきた。

 対話の相手が同業の講師であったり、または専門家を呼んで講義を更に掘り下げするなどの場合はそれほど気にならない。でも対話の相手のほとんどが、講師よりもかなり若い女性、もしくは学生らしき若者であるケースが多いのである。つまり、講師対生徒みたいな構成が多くなる。

 だからと言って、対面相手が全くの素人だというわけではない。講師の講義にそれなりに対応できるだけの知識を持っており、見かけだけかも知れないけれど、少なくとも「あなたを尊敬し、あなたの講義に興味を持っています」みたいなスタイルの感じられる相手である。

 もちろん専門講師による講義が基本なのだから、その講師の知識を中心に番組が展開していくのは当然である。ただ、その展開に当たって、講師が生徒に「前回は○○についてお話ししましたが、どんな内容か覚えていますか」などの質問がよく出てくるのである。

 質問がおかしいと言うのではない。同じような講義を繰り返したところで、それほど違和感があるわけではない。ただ、講師としては決められた時間数の中で、効率よく講義したいと思うだろうから、可能な限り重複は避けたいと思うのだろう。生徒の理解度がどの程度かを確かめながら講義を進めていくという方式は、理に叶っていると思う。

 ただ、こうした問いかけに対する生徒の反応がほとんど同じなのが、どこか気になるのである。質問と応答との関係が、予めシナリオとして構成されているように思えてならない。つまり、最初から仕組まれたシナリオに乗っかった演出であり、どこか作為めいて感じられるのである。

 それは答が必ずと言っていいほど、「80点の正解」になっているからである。80点という数字に特別こだわっているわけではない。80点と言う言葉が、番組の中で使われているわけでもない。その数値は、単なる私の感触でしかない。

 ただ、講師の質問に対する生徒役の答は、ほとんど一定なのである。様々な講義があり、様々な質問があり、そして様々な答がなされる。もちろんその範囲は私の視聴している番組に限られる。だから、他の講義も同じだといえるわけではない。スポーツや、外国語やその他興味の湧かない講座を、私は見ることなどないからである。

 このように並べるといかにも自慢めくけれど、私の興味は文化人類学、心理学、宇宙生物などの科学、時に数学などなど、多様な番組に及ぶ。まあ、私の知識では理解できない講座が多いけれど、それでもそうした講義を追いかけていくだけで楽しいときもある。

 でも、こうした講師と生徒の質問と回答のパターンが、いつも80点で進行していくのがどうしても気になってしまう。回答者は生徒であり、回答の時間は限られている。生徒は概ね「ひとこと」でしか答えられない。測ったわけではないが、一分も与えられることはない。

 にもかかわらず回答は要領よくまとまっており、その回答に講師は「その通りです。良く理解できてますね。でもこの点が足りませんね。」と一方では誉めつつ、同時に多少不足していることを指摘するのである。

 そのことの意味が分らないというのではない。100点の答を出されたら、講師の立場が危うくなるとの思いが理解できないではない。危うくなるというのは言い過ぎかもしれず、単に困るだけなのかもしれない。講師は常に教える側で満点の高みにいること、生徒はそれよりも低い理解度しか持たないこと、こうしたパターンに私たちは、いつの間にか馴らされてきたのかもしれない。

 そんな暗黙の了解が、講師と生徒だけでなく、恐らく番組そのものの編成に関わる編集者たちの間にまで浸透してしまっているように思える。「ほどほどで、しかもちょっと足りない」、そんな回答の応答で成立している番組構成が、一種のヤラセのように感じられてしまうのである。

 そして私がここにへそ曲がりと自認しながらも話題として取り上げたのは、そうした意図が「見え見え」に思えるからである。余りにもはっきりと、そのミエミエが臭うからである。

 それはもしかしたら、講師が80点にこだわつているのかもしれない。100点で答えられたら、そこで講義を続ける意味がなくなってしまい、場合によっては放送講座の意義そのものが問われることにもなりかねないと思っているのかもしれない。また、80点で回答させることが、講義を次に進めるための原動力になっているとも考えられる。

 そうした番組編成の効果を認めたうえでも、こうした講義の展開はあまりにもパターンが決まっているように見える。そして、きっとこの講師の実際の講義、つまり学校での講義もこれと同様に何の変化もないままに進んでいくのだろうと思ってしまうのである。

 なぜなら、その放送大学の講義は予め作られた編成要領による、一種の「作られたウソ」で構成されているように思えるからである。講師の講義に対する熱意が、多くの場合感じられないからである。そしてそして、どんなに工夫を凝らしても、そのほとんどが棒読みだからである。



                        2021.1.10    佐々木利夫


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80点の正解