今年の節分は、例年と比べると一日早いのだそうである。いつもの年の節分は2月3日なのに、今年はなんと124年ぶりに2月2日になるのだと言う。

 そのことに異論があるわけではない。100年以上も続いたのだからいつも通りの2月3日に戻せとか、計算が間違っているとか、暦の計算とは別に人々の習慣に従うべきだとか、そんなことを言いたいのではない。

 異なった原因は地球の自転周期にあるという。私たちは一年を365日として生活しているが、天文学的には地球が太陽を一周する日数は365.24・・・日であり、それを微調整するため4年に一度のうるう年などを設けている。

 節分だけでなく、太陽暦はもとより、慣習的に利用されている太陰暦もまた、基本的には地球の年周運動、つまり地球が太陽を一周する正確な期間を基礎としている。そしてそれは○月×日というのではなく、太陽と地球の瞬間的な位置関係を基としている。

 だから「春分の日」を特定の日として計算するのではなく、春分点を通過する時間を含む日を「春分の日」とするのである。

 地球の一年は365.24・・・日と書いた。それを365日+アルファとして、日を単位とした暦を作って私たちは生活している。その結果、端数処理の日数換算が必ずしもうまくゆかず、春分点が一日ずれてしまうことがある。その結果として、二十四節季の立春が例年よりも一日早くなり、その前日としての節分が一日早まることになった、これが124年ぶりに一日早まった節分の説明である。

 理屈は分った。キチンと計算についていけるほど詳しく理解できているわけではないけれど、専門家が太陽と地球の位置を計測して、春分点とやらの計算から節分を割り出したということは分った。

 でも私はそのことに、どこか「それがどうした」と曲がったへそがうずくのを止められないのである。その計算に難癖をつけたいのではない。でも節分が一日早まったことに、100年ぶりだの124年振りの快挙だのと、マスコミがはしゃぐ姿がどこか曲がったへそをくすぐるのである。

 何らかの事情でお正月が新設された13月1日とか12月32日に突然になったとか、または一日早まって12月30日をお正月にするなどが、突然発表されたと言うのなら大騒ぎするのも分らないではない。

 たたが節分と言ってしまったら、節分行事を大事な慣例としている神社仏閣や地方集落などには申し訳ないけれど、「節分がなくなった」というのではないのだから、それほど大騒ぎするほどのことではないと思うのである。

 小学校や幼稚園で、節分の行事やお遊戯会などをやるところもあるだろう。家庭で豆まきをやるところもあるに違いない。年男を呼んで境内で盛大に豆まきをする神社の風景を見たこともある。でも節分の日が一日早まったことが、そのことにどんな影響を与えると言うのだろうか。

 結局は商業主義に躍らされた、単なる一過性のコマーシャルの大騒ぎだけだったのではないのだろうか。そんな大騒ぎに、マスコミもメディアも単純に乗っかり、日本中が124年振りという宣伝文句に躍った。

 日本はもとより世界中が混乱しているコロナ騒ぎである。マスク、手洗い、三密回避を掲げる緊急事態宣言は、1月7日から2月7日までだったが、3月7日まで一ヶ月延長されることになった。閉塞経済の下で、少しでも商売の活性化を考えるのはむしろ必然なのかもしれない。

 それでも節分の恵方巻きを食べるのが、あたかも日本古来の伝統のように喧伝するのはどこか抵抗がある。そしてそれが124年振りだとの宣伝が拍車をかける。

 これまでも、翌日になって大量に廃棄される恵方巻きが、食品ロスとしてスーパー、コンビニなどで問題視されている。使い捨て社会が、そのまま食品にまで波及してきているのが現代なのだろうか。

 それを煽るように今朝のスーパーなどのチラシは恵方巻き一辺倒である。山盛りに重ねられた恵方巻きは、売れなければ翌日には廃棄するしかない。節分限りの食品なのだから、廃棄はそれなり宿命なのだろうとは思う。

 それでも、大量の恵方巻き、袋詰めピーナッツの山を見るにつけ、こんな大量の食品が節分の翌日にはどうなってしまうのだろうかと、要らぬ心配を私に押し付ける。そしてそうした宣伝文句や、124年振りとの科学的データが後押しするように躍ってしまっている。そんな風景にいつの間にか私たちは、鈍感になってしまっている。


                        2021.1.31    佐々木利夫


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一日早い節分