忖度という言葉が、昨年の安倍総理大臣のモリカケ問題や後援会員の桜を見る会への参加を契機に、メディアを中心に広がってきている。言葉そのものは昔からあったし、それほど使い方に気をつけなければならないような内容を持つ言葉ではないと思っていた。

 だが、いつの間にかこの語は、悪の権現とも言えるほどとてつもない非常識さを象徴するような意味を持たされるようになってしまった。

 忖度とは、単に相手の気持ちをと推し量ることである。そして推し量って相手に配慮することである。だとするなら、この言葉に非難されるような内容は少しも含まれていないのではないか、そう私は感じるのである。

 人間の持つ他者に対する感情、それが恐怖であれ親愛であれ、はたまた無関心であれ、そうした心の動きが人間固有のものなのか、それとも程度の差はあれ、イヌネコや昆虫などにも存在しているのか、そこまでの確信はない。

 だからと言って、仮に忖度と言う感情が人間だけにしか存在しないとしても、動物には皆無だと必ずしも言えないような気がする。そうした動物の持つ感情を、人間になぞらえて忖度などと呼んでいいのかと問われると、そこにも抵抗はある。だが、忖度を「相手の気持ちを推し量る」と理解するなら、人間以外にもそうした感情が存在することは否定できないように思う。

 そんな感情を、「推し量る」などと表現するのは間違いのような気のしないでもない。それでも例えばネズミが数メートル先のネコの姿を見て、我が身の危険との関係を考えるのは、それがたとえ本能に基づく判断だとしても、一つの方向性を持った感情にはなっているような気がする。

 ところで、チョット考えればすぐに分ることだけれど、少なくとも私達人間は忖度の中で呼吸し、食べ、生活し眠りについているのではないだろうか。それはつまり人は忖度なしでは生きていけないように作られていると思うからである。

 私には人間が社会的な生物であると、科学的に証明することなどできそうにない。できないけれど、人は個として生存していけるかと問われると、難しいと言うだけでなく不可能なのではないかとさえ思ってしまう。

 無人島に一人流された漂流者の話を知らないではない。だが恐らくそれは小説の世界だけの話ではないだろうか。その漂流者は、かつては社会の構成人として生活していた歴史と記憶をもった存在として語られる。そして無人島での辛酸な生活はともあれ、いずれ経験した社会へと戻る結末が待っている。例えそれが沖を通る無関係な船舶の影の形であれ・・・。

 もしそうでなければ、その漂流者は必ず孤独のまま(仮に天寿を全うするまでの幸運に恵まれたとしても)生涯を終え、歴史にもしくは他者に名を残すことなどないからである。もちろん、孤島に一人なのだから、子孫を残したり記録を残したりすることなども不可能である。

 一方、無人島での一人というのでなく、「集団の中での孤独」という人生もあるだろう。街外れか山の中かはともかく、世俗を離れた孤独の生活なり人生を送ることは、理屈の上では可能である。でも本当の意味で他者と関わることなく生きていけるかどうかを自問したとき、それは不可能な架空の話でしかあり得ないとしか、私には思えない。つまり、そんなことは現実的に無理だと思えるのである。

 どんな形にしろ、人は他者との関わりの中で己を維持していくしか、生きてはいけないのではないだろうか。他者とはどの程度の規模かは、人によって異なるだろうけれど、単純に考えても数千人、場合によっては数万人を超えるのではないだろうか。

 パソコンに向かって、マウスと出前やカップラーメンだけで毎日を過ごしていると宣言したところで、マシンや電気や食材や調理など、孤立した生活の背景にも、溢れるほどの他者が存在する。仮に親の遺産で生活が維持できしたとしても、遺産と消費生活を結ぶ過程には多数の他者の介入が必要となる。

 そうした他者との関わりには、必ずといっていいほどその背景に忖度がある。その忖度を、思いやりとか気遣いと呼ぶか、はたまた迷惑をかけまいとする気持ち、更には懐柔、買収、圧力、拷問などと呼ぶかはともかく、自己と他者の関わりを自らへの有利さに結び付けようとする努力は、常に忖度になるのではないだろうか。

 自分の自分に対する配慮に、忖度と言う言葉を使ってもいいかどうかは疑問ではある。しかし、少なくとも他者との関係においては、忖度という配慮がなければ、恐らく「自らの生活」そのものが成立しないのではないだろうか。

 忖度の背景に、どこまで信用と言う無形の配慮が必要かは疑問なしとはしない。それでも、仮に独裁者としての地位を生まれたときから与えられていたとしても、支配の全場面に自らが直接に関わることは不可能である。支配による利益を享受するには、どこかで「支配できる相手に任せる」という仕組みが必要になる。

 それが忖度につながる。任せた相手がどう考えているのか、何を考えて任せたのか、何を期待しているのかは、「任せられた私」の任務だからである。その任務の対価として、私の生活の維持が保障されているのである。

 もちろんそうした関係が、常に支配と従属の場面だけに表れるとは限らない。普段づきあいとか、家庭生活などと言った、支配・被支配とは別の場面でも発生する。

 それでも、相手が何を考えているのか、何を望んでいるのか、望んでいないのかを推し量ることは、人が生きていくための必須の要件である。そして仮に必須でないとしても、それは必要な潤滑油として互いの摩擦をなくして円滑なコミュニケーションを生むのであり、それはやがて我が身の利益へと還元されてくるからである。

 私たちは忖度の中で流され、浮かび、よどみ、漂いながら生活しているのである。それがたとえ夫婦であろうとも、親子や知人であろうとも。そして更にその範囲は、社長や政治家などにまで広がっていくのである。忖度は「生きていること」の一つの証しなのでもある。


                        2021.1.30    佐々木利夫


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忖度(そんたく)