ふるさと喪失


 「ふるさと」という言葉には、60歳をとうに過ぎた者にとっては、「兎追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川…」に象徴されるイメージが固定観念として染み付いている。だからそのふるさとの現実がイメージとかけ離れた近代的な姿になっていようと、または見る影もなく凋落した姿に変貌していようと、記憶の間にある故郷は、やはり幼い己の独壇場であり、嬉しいことは嬉しいままに、悲しいことや辛いことですら、長い時のなかでは甘く熟成している。

 そうした意味で、室生犀星が「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの……」とうたったことも、ふるさとそのものを現実から少し離し、思い出や夢想の中に抽象化する一つの手段だと思い込んでいた。

 でも、それは違ったのである。この詩はそんな生易しいものではなかったのである。私のこの詩に対する理解は、この二行で止まったままだった。このフレーズがどんな風に続いていくのかなどとは考えもしなかった。いや、むしろ、私がそうであろうと想像し、望んだ通りに展開していくものだと思い込んでいたのである。

 詩の全文はこうである。

 ふるさとは遠きにありて    室生犀星

     ふるさとは遠きにありて思ふもの
     そして悲しくうたふもの
     よしや
     うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても
     帰るところにあるまじや
     ひとり都のゆふぐれに
     ふるさとおもひ涙ぐむ
     そのこころもて
     遠きみやこにかへらばや
     遠きみやこにかへらばや
           [ 小景異情 その二 ]より


 9歳で父を失い、母は行方知れずとなる。親戚に引き取られた彼はやがて文人の夢捨てがたく、21歳でふるさと金沢を捨てて東京へ向かうが、貧困のどん底で詩作はおろか生活さえ続けることができず、やがて食い詰めて金沢に戻る。
 そんな彼を地元が優しく受け入れてくれなかっただろうことは容易に想像できる。彼にとってのふるさとは、「たとえ乞食になっても帰るところではない」と言わしめるほどの場所だったのである。

 それでも彼にとって金沢はふるさとであり、帰るよるべの場所だったのである。追い詰められたときに思い付く唯一の場所であり、決して裏切らないであろう僅かな空間だったということなのであろう。

 石川啄木は、住職である父の失敗から、石をもて追われるごとくにふるさと渋民を離れた(煙)。しかしそれでも、「ふるさとの山に向かいて/言ふことなし/ふるさとの山はありがきかな」(一握の砂)であり、「かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川」(煙)としてふるさとは存在しているのである。そして「今日もまた胸に痛みあり/死ぬならば/ふるさとに行きて死なむと思ふ」(悲しき玩具)と切なくうたうのである。
 高村光太郎は智恵子のふるさとを、「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川/ここはあなたの生まれたふるさと/あの小さな白壁の點點があなたのうちの酒庫…」(智恵子抄)と懐かしくそして優しくうたった。
 そして太宰治の「故郷」、「津軽」、「思ひ出」、「哀蚊」、「帰去来」などからは、ふるさとへの切ない思いがまっすぐに伝わってくる。

 現代はこうした意味でのふるさを失ってしまった。里山作りが呼びかけられたり小学校の庭にビオトープと称する人工池を作ること自体が、風景としてのふるさとの喪失であり、戸外で遊ぶことを忘れた子供には、存在としてのふるさとすら失われてしまっている。

 犀星は、乞食になっても帰るものではないとしてふるさとを拒否し、そして、東京へ戻りたいと切なくうたったけれど、にもかかわらずふるさとは彼を迎え入れているし、拒否している彼自身もそのふるさとに包含されることで自己を保っているのである。
 これはおめおめと帰ってきてふるさと渋民の世話にならなければならなかった啄木とて同様であった。

 本来ふるさととは、そうしたものなのかも知れない。ふるさとは透明な存在であって、すべてをあるがままに受容するという役目を負っているのかも知れない。
 だから、すがり付く者にも拒否する者にも、ふるさとはひとしく受容する姿勢を示すことでその存在を保ってきたとも言えるのである。

 そうしたふるさとを私達は自ら放棄した。効率を求め、便利を求め、しがらみから逃げておのれ個人の欲望を充足することに余りにも力を入れすぎた。

 ふるさととは信仰と同じように、心のどこかで信じていることの総和である。土木工事で作り上げたり、伝承の記録映像を保存したりすることで生き残っていくものではない。犀星のようにでもいい、心のどこかでふるさとを信じ、頼り、記憶していること、そのこと自体がふるさとを生かしていく血液になるのであり、形作って行く力になるのである。

 道は車のために存在するようになり、公園の砂場は消毒され、小川は埋められた。人はバーチャルの世界に生きるようになり、会話はいつのまにか携帯メールに取って代わられ、姿も見えず声も交わさないそうした存在との付合いが、どうして純粋で利害を離れ、至高の精神に裏打ちされたあるべき恋愛の姿なのだと思い込むようになってしまったのだろう。

 ふるさとは、素足で踏む土の感触を知らない者、土に匂いのあることを信じない者にとっては存在しないのである。存在しないということは受け入れてくれる素地そのものがないということなのである。

 ふるさとの問題は、そんなに簡単に解決するものではないだろう。余りにも急速に進み過ぎた過密と過疎のギャップ、経済の発展に伴う人々の土地間の急激な移動、地価の高騰やサラリーマン化に伴う住宅と店舗の分離、大量生産の名のもとに不必要とされてしまつた技能やそうした腕を持つ職人の喪失…。

 現代人は、帰るべき山や、川や、池や、風、そして空や、空気や、水や、星や、雲や…、なんでもいい、信じてくれる以外に見返りを求めず無条件に抱擁してくれるふるさとを失った。人はふるさとを信じないから、ふるさともまた、人を信じなくなった。
 そして人は人の中に安らぎを求めようとするが、それも利害の中に埋没し、ぶつかり合い、裏切られ、やがていつか自分だけを信じるようになって己の中に閉じこもるようになる。

 今の人々が、どうしてあせったり、急いだり、消費や華美に走るのか、そしてどうしてそれでも満足できないで、いらいらを募らせているのだろうか。

 答えはそんな単純なものではないだろうが、どんな人にも「無条件で受け入れてくれる存在」があると信じることができるとしたならば、今とはもう少し違った形になるのではないだろうか。それはもしかすると「ふるさと」だけなのではないのかも知れない。たとえこの身をそこへ委ねることがないとしても、そうした無条件の受容の存在を信じることさえできるならば、人はもう少しゆとりの心を持つことができ、そうしたゆとりはほんの少しであるにしろ互いの優しさの確認につながっていくのではないだろうか。

 2003年11月9日は衆議院議員総選挙投票日である。自民党が小泉純一郎総理大臣を中心とする与党安定多数、そして自民党単独過半数を、民主党が自由党を吸収して二大政権樹立、そして政権交替を標榜する選挙戦となった。選挙カーの騒音から少し離れた路地裏の住人は、机に足乗せてウトウトしながら、冷たくなったコーヒー脇において世の中を憂いているばかりである。
                   2003.11.7   佐々木利夫