所得の概念

1 はじめに

 所得税法は課税標準としての所得(課税所得)の計算方法について規定しているだけであって、所得自体の概念については全く有権的な定義を与えていない。もちろん、税法上の所得である以上、納税者の担税力を構成する経済的利得、利益を意味するものと考えることは、あながち間違いではないが、これだけで画一的に定義を与えるには難点があろう。即ち、相続や贈与によって財産を取得しても、少なくとも所得税法上課税されないことを説明できないからである。

 結局、制定された税法の変遷や、財政学、経済学、商法、会計学上の立場などから考慮する以外にないであろう。ここでは主として税法の規定及びその変遷を中心として考えを述べてみたいと思う。

 所得税法の発詳は明治20年である。この時の所得税法の立場は、イギリス租税法の影響を多分に受け、後述する所得源泉説を採用していたとみることができる。また、明治32年、所得税法の中におりこまれた法人税は寧ろドイツ租税法の影響を受けた純資産増加説(所得源泉説とともに後述する)から所得を把握していたものとみることができるのである。

2 所得源泉説と純資産増加説

 所得源泉説は、ニューマンやフイステイング等によって唱えられたもので、その大要は「一定の源泉からの反覆的、継続的に生ずることが期待できるタイプの収入から必要経費を控除したもの」をもって所得とみる、いわゆる資本には課税しないとする立場である。         
 一方、純資産増加説はシヤンツ等の唱えたもので「所得は一定時期における純資産の増加で、これに用益及び他人からの貨幣価値的給付を含めたもの」とする立場である。

 つまり前者は所得の概念を動的(損益計算書的)にとらえ、後者はこれを静的(貸借対象表的)にとらえたものとみることができる。
 これはたとえば現金による物品の販売という一定の事実を「売上」という社会的判断でとらえるか、または、現金増加という資産増加の側面からとらえるかの問題でもある。

 この両説の具体的相違は一時的、臨時的所得に課税するか否かの点にもっともよくあらわれてくる。即ち、純資産増加説では譲渡所得、一時所得にも課税するのに対し、所得源泉説では課税しないのである。

3 税法の変遵

 所得税法は明治20年創設時に所得源泉説的立場をとっていたことは前述した。しかし、戦後シャープ勧告により、アメリカ税制的な純資産増加説への変化を遂げるのである。これは担税力というものの観点をマクロ的な国家経済機構の立場から、ミクロ的に個人の経済機構の中に見出してゆこうとする考え方への移行をあらわしたものとみることができよう。
 結局、所得源泉説では、資本に課税することは国家経済を萎縮させるとの考え方が強かったのに対し、純資産増加説では寧ろ個人間の税負担のアンバランスの解消こそが必要であり、個人の経済力に担税力を求めることが必ずしも、国家経済の発展阻害となることはない、との考え方に立つものであろうと思われる。

 そして、その後の税制改正につれて、この概念はますます純資産増加説へと傾いていったのであり、現行所得税法は世界でも、その課税範囲の広さは注目されているといわれる。

4 純資産増加説と所得税法との具体的関連

 所得税法が純資産増加説に傾いていることは否定できないとしても、全てをこの立場から説明することが可能かというと、必ずしもそうではない。前にも触れたが、たとえば相続・贈与による資産増加の課税除外については説明できないし、財産上の損失(家計費消費と結びつく以外のものであって、たとえば生活用、非生活用にしろ、財産の紛失、災雪・破壊等によるもの)の全てを、無条件で控除項目と考えるのは問題であり、個人所得を純粋な形での純資産増加説の立場からとらえることには限界があると言わなければならないであろう。

 即ち、所得税法は純資産増加説的傾向をもっているということは否めないとしても、必ずしも純粋な形でそれに立脚しているのではないということである。それでは、この税法の立場をどのように考えれば良いのであろうか。

5 もう一つの面からのアプローチ

 所得源泉説、純資産増加説はともに、財政学上の定義である。もちろん、租税は財政上の重要な位置を占めるものではあるが、たとえ純理論的に財政学上はこの二大対立の学説しかあり得ないとしても、税法学にとって固有の立脚すべき理論ではないというべきである。もちろん、一国の租税体系を決定しようとするとき、財政学上のどの立場を基本として考えるかは重要な問題である。それぞれに国家社会なり生活に大きな影響を与えるものをもっているのであるから、その国家がどちらの立場を採用するかは、慎重に決定されなければならない問題であると思う。

  だが、それだからと言って、基本的にどちらかの立場を持つなり、傾向を持つなりで良いのであって、発祥から末端までどちらか一方に色分けされていなければならぬという運屈はない。その決定はあくまでも、国民と国家との了解点においてなされなければならない以上、財政学上の両説をもって税法を説明しようとすることは、結果のみにとらわれて、ことの本質を見誤まるものではないだろうか。

 現行所得税法は、特定の学説によって所得の意義を決定している訳ではなく、所得課税の目的に即して国民的合意のもとに具体的な取扱いを定めているのであり、結局、各種所得の性格に応じた算定方法を規定しているものと解することができよう。

6 所得概念のもう一つの側面(帰属所得等)

 たとえば、A,Bがともに100万円の同じ収入があったとして、家族構成等が同じであれば、同じ税負担をしなければならない。
 一見このことは明白であり、これが即ち、公平の原則にも合致しているかのようにみえる。しかし、反面、もしAが自宅を持っており、Bが借家住いであるとすると、そこに同じ100万円の収入であっても担税力に差が出てくることは否めないであろう。これについて税法は何の手当(帰属家賃の加算、又は、支払家賃の控除等)もしていない。
 いわゆる帰属家賃の問題として提起されるところのものであり、外国ではこの調整を行っているところもある。だが、この問題は単に家賃のみに限らず、地代にも当然考えられるし、それ以外にも多々存する。

  一般に帰属所得の定義としては「自己の財産の使用もしくは占有から生ずる利益、または、自己もしくは家族のためにする役務提供(自家労働)によって生まれる利益」である。とするならこの外に、家庭菜園や日曜大工、妻の家族のための衣服の仕立て、ひいては食事の調理等際限もなく広がってゆく可能性をもっていると言わねばならない。しかし、これが果してどこまで調整可能なのか、多くの問題を含んでいるから、必ずしも所得税法上のみで解決するのが適当かどうか疑間であり、たとえぱ、帰属家賃の問題などは財産税的なもので処理するのも一方法であると考えられる。

 更に、たとえぱ、これら帰属所得が何等かの形で調整されたとしても問題が残らない訳ではない。これらの所得調整後においてA、Bの所得が仮に金額的に等しくなったとしても、A、Bについてその所得の重さが違う揚合があり得るからである。それはたとえば、地域、環境等による差がどうしても発生することがある。物価の高い地区に居住するAと、安い地区に居住するBとでは、同じ100万円でもその重みというか使い勝手に違いが出てくるはずである。また、商品なりサービスの提供に近い所に住むAと、離れているBとでも違うはずである。また、商品なりサービスなりの多くの情報を得やすい立場にあるAと、そうでないBとの差、各人の生活の好みによる差、…等、社会的な問題から個人の趣味的範囲に到るまで、もし担税力という点にのみ着目するならば、様々な差があるはずである。
 これらを全て税法上考慮すべき必要はないとも思われるが、所得というものをどうとらえるかの点では、やはり見逃がせないのではないかと思われる。

7 非課税所得と免税所得

 非課税所得は、何等申告手続を要せずして当然に課税対象とはならず、免税所得は特別の手続を経てはじめて課税対象外におかれるものである。

 なお、非課税所得の性格としては一般的に次のように言われている。
  @ 社会政策的配慮に基づくもの
  A 担税力に乏しく、心理的に課税が困難なもの
  B 小額預金の利子等
  C 実費弁償的なもの
  D 執行上の観点からするもの
  E その他
    ※この分類は林大造、「所得税の基本問題」p110〜112によった。

8 まとめ

 結局、所得の概念というものは、私法上の概念なのではなく、経済上の成果たる利得という経済上の即物的な概念を税法の中に取り入れ、これに担税力を見出しているのであるから、所得を認識する基準はあくまでも経済的評価というところにあるのではないだろうか。

 名古屋高裁昭和41年1月27日判決は、次のように述べている。「所得の概念は、專ら経済的に把握すべきであり、所得税法上、一定期間内に生じた経済的利得を課税の対象とし、担税力に応じた公平な税負担の分配を実現しなければならないので、所得の発生原因たる債権の成否とは無関係に、いやしくも納税義務者が経済的に見て、その利益を現実に支配管理し、自己のためにこれを享受しうる可能性の存する限り、課税の対象たる所得を構成するものと解するのが相当である。」

 従って、租税は納税者に公平に負担されるべきであるという理念があり、常にこの理念によって所得とは何かの問題が考えられねばならないのではないだろうか。

              所得の概念(完)   佐々木利夫

 

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