六条御息所


  源氏物語は、光源氏が亡き母桐壺の更衣の面影を、藤壺、紫の上、女三宮(おんなさんのみや)らに求めて行く一代記と読むこともできるし、右大臣、左大臣と言う二大政治組織の権力闘争の側面から読むことも面白い。
 また、義母藤壺との不倫とその罪の子、そしてやがて我が身に起きる正妻女三宮と柏木との不倫とその子を巡る因果応報の物語でもあり、そのほか色々な切り口で楽しめる、まさに壮大な物語である。
 そればかりではない。そんな大きな視点から少し離れて、光源氏を巡るひとりひとりの女や男の物語として読むことも楽しい。

  ここでは六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の女としての業というか悲しみに目を向けて少し読んでみたい。

 彼女は賢明で貞淑な女性である。若くして皇太子の正妻となり、天皇の正妻としての地位を約束されているにもかかわらず、やがて皇太子と死別する。源氏はこの未亡人に熱心に言い寄る。そして、美しい源氏の求愛の前に、この誇り高く操堅い女性もついに落ちる。
 しかし、彼女が源氏に身を許したとき、源氏の愛は急速に冷めていく。源氏にとってこの七つ年上の聡明な女性はあまりにも気詰まりであった。
 いまでは皇太子以上に源氏を愛してしまっているのに、その源氏が寄りつこうともしない現実に、彼女の誇りはづたづたに切り裂かれ、二十四歳の燃えるような恋心は行き場を失っている。
 しかも彼女には前皇太子婦人としての高い誇りがある。彼女はその満たされない恋心と傷ついた誇りを、じっと己の中に保ちながらつつましい生活をおくっている。


 三度にわたり彼女は殺人を企てる。既遂二件、未遂一件である。無意識のうちに彼女の体を離れた霊魂は、物の怪となって彼女の恨みを見事に晴らしてくれるのである。
 最初の犠牲者は夕顔である。朝までに散ってしまうようなはかない女との源氏の恋である。身分すら定かでないこの女のもとへ、源氏はあろうことか御息所を訪ねる途中に気持を変えて向かうのである。そんな身勝手な行為をどうして許すことができようか。


 次の犠牲者は源氏の正妻、葵の上である。当然自分がなれるはずの正妻の地位を、源氏は今をときめく左大臣の娘である葵に与え、しかも葵は源氏の子を妊娠するのである。
 しかも光源氏の行列を一目見ようと出かけた葵祭りで彼女は葵の牛車と車争いに破れて後ろに追いやられ、しかも源氏はそのことに気づかない。気づかないことは無視された事とどう違うのだろうか。彼女の誇りがどうしてそれを許すことができようか。
 そして葵の死後の正妻は当然に自分がなるものと期待し、世間の噂もそうであったのに、源氏へ送った手紙の返事には生霊となったおまえの姿を見たということをほのめかす絶望の知らせが記されていた。すべては終わったのである。


 次に霊が狙ったのは葵の死後、源氏の事実上の正妻になっている紫である。既に六条御息所は死んでいるが、源氏との寝物語の中で、どうして昔の自分の悪口を言われなければならないのだろうか。「昔の恋が残っているのにあなたは紫と一緒に私の悪口を言った」、物の怪は恥ずかしさに身をよじらせながら叫ぶのである。生霊として夕顔と葵を取り殺した女の霊は、死んでもなお源氏の愛人に取り付くのである。
 かろうじて紫は命をとりとめる。しかし、この紫への攻撃は、紫の命以上の重大な事件を引き起こす。


 少し前、前天皇朱雀院は娘である女三宮の後見として源氏を選び、源氏は彼女を正妻として迎える。この女三宮に不倫の恋を仕掛けるのが柏木である。ただ、女三宮は紫の上と同じ六条院に住んでおり、女官たちの数も多く賑やかな屋敷の中で柏木が忍んで行く機会はなかった。
 しかし紫の病状が好転しないことから源氏は紫を二条邸へ移しそこに入り浸りになる。
結果として六条院は女三宮一人となり火の消えたようになって、荒廃の影さえ射し始める。
 この隙を柏木は憑かれたように狙う。源氏は今では天皇に次ぐ権力者である。その源氏の正妻に向かって、柏木は絶望的な恋を無用心に、無警戒に、そして無謀に燃やし、そして露見し自ら破滅していくのである。


 やがて源氏は我が子ならぬ我が子をその手に抱き、だれにも言えないまま正婦人として遇した妻の裏切りとかつての義母藤壺との人倫にもとる情事の罪におののくのである。
 そして女三宮の出家の際、またしても物の怪は姿をあらわし、「紫の上を取りかえしたと思っている様子が口惜しかったので女三宮に取り憑いてやった」とうそぶく。
 女三宮の不倫のきっかけを作り、かつまた不倫そのものにも御息所は深く関わっているのである。


 六条御息所、彼女はまさに地獄の業火に焼かれる人である。生きているとき既に彼女は嫉妬の鬼であり、死んでもなおその霊は救われなかった。実生活で貞淑で清潔な生活を送れば送るほど、彼女の内なる魂は、ある瞬間に理性の抑制を離れて狂気を演じてしまうのである。
 彼女は死に際して源氏に、「我が娘だけは妻の一人にしないでほしい」と懇願する。
 男に頼る以外に生きるすべのないこの時代の女性にとって、娘に源氏のような後見ができるのはむしろ望ましいはずなのに、その言葉からは我が娘にさえ嫉妬するほどに源氏を最後まで愛しぬいた悲しい女の姿が浮かんでくる。
 人の心に潜む果てしない闇の世界、そんなこともこの源氏物語は我々に時を越えて伝えてくれる。