女 三 宮 

女三宮(おんなさんのみや、にょさんのみや)

 源氏物語の中で、彼女ほど生涯のある時点を境に別人のように書き分けられた人物も少ないのではないだろうか。

 女三宮は、源氏の異腹の兄である朱雀院(天皇)の娘であるというのみならず、彼女の母は源氏が実母の面影を追って恋い慕い続け、ついには不義の子までなす義母藤壺の義理の妹の娘、つまり藤壺の姪である。朱雀院はやがて出家を思い立ち、彼女の後見として源氏を選び正妻とさせる。

 このあたりは、源氏の実子である冷泉帝や後に述べる柏木なども降嫁(皇族の娘が臣下に嫁ぐこと)の候補に上がっている中で、親子以上にも年齢が違い既に老境に入っている源氏を選び、しかも彼女自身が源氏の実母桐壺更衣の面影を持っているなど、やや無理な設定も見うけられる。
 しかし、物語の大きな流れの中での非常に巧妙な伏線として、紫式部の作家としての才能には目を見張るものがある。

 物語に始めてあらわれる女三宮は、いかにも深窓の、しかも無知で無防備な、どちらかというと軽率な少女である。精神のひらめきもなく幼稚な人形のような存在であり、人怖じのしない素直な性格ではあるが、話し振りも子供のままであり、筆跡も幼いままであるなど、あまりにも未完成な存在であった。

 彼女の軽薄さを物語るエピソードとして、大きな唐猫が子猫を追いかけている途中で御簾が持ち上がり、そのため偶然にではあるが、かねてから密かに妻にと望み、結果として果たせないまま彼女の姉の二宮と結婚し、それでもなお、想い悶々としている柏木にその姿を見られてしまうことがあげられる。

 当時の高貴の女性は、もう10歳くらいから男には顔はおろか姿さえも見せないのがたしなみとされており、ましてや既に降嫁した女性がその姿を見られるということは、夫にとって寝取られるほどの現象と考えられていたらしい。

 しかし、彼女が源氏と結婚したときの年齢は15歳である。それで姿を見られたことがそんなにも軽薄だと言われなければならないのだろうか、現代では理解しがたい習俗である。因みにこのとき源氏はすでに四十の賀(現代で言えば還暦の祝いとも言うべきか)を祝う年齢であり、当時としては老境に入っていたと言えるのである。

 女三宮の姿を見てしまった結果、柏木は消せない火を更に燃え上がらせ、曲折はあるものの、ついに女三宮は柏木の子を宿す。この間の彼女の態度も非常に優柔不断である。帝の娘として蝶よ花よと育てられてきた彼女ではあったが、少なくとも自分を取り巻く状況の変化にすばやく適応して身を処していけるほどの要領を身につける暇はなかったとも言える。

 ついこの前まで、父の磐石の庇護のもとに暮らしていた子にとって、源氏の正妻としての結婚そしてロリコンとしての興味しか示さずひたすら紫の上だけを信頼している源氏との生活にどれほど対処していけたかどうか疑問である。恐らく無力感の漂う日々だったのではなかろうか。彼女はこうした不自然な降嫁の中で、7年も人形妻として暮らすのである。

 そして妊娠した彼女は、自分の部屋に置き忘れた柏木からの恋文を源氏に読まれるという致命的なミスを犯す。なんという稚拙なミスであろうか。
 ここらあたりまでの女三宮に対する紫式部の筆は、軽蔑そのものである。「もっと、大人になりなさいよ」といわんばかりの書き振りである。

 ところで、間もなく女三宮は難産の末男児を出産するがその子は形の上ではまさしく源氏の正妻の子である。女の子であれば人目に触れることなく生活していくこともできるが男児である。しかも柏木に似ていると源氏は確信する。かくて源氏は我が子ならぬ我が子をその手に抱き、かつて義母藤壺に産ませた子を父帝が我が子として育てたと同じ輪廻の罪深さにおののくのである。

 この父からも母からも望まれなかった子は「薫」と呼ばれ、源氏死後における物語の中心人物になっていくのであるが、そのことは別稿に譲るとして、柏木と女三宮の所業を知った源氏は、決してその事実を示さずに、むしろ知らない振りをすることで実に陰険に二人に対していじめを始める。それはまさしくいじめと呼ぶ以外にないほど執拗である。それは出産後も続き、源氏は女三宮のもとへは泊ろうとしないばかりか、子供の顔も見ないなど、延々と続く。やがて柏木は死の床に着き、女三宮は出家を望むようになる。

 この頃からである。女三宮はそれまでの頼りなさから一転して急に成長を見せはじめる。まるで別人かと見まごうばかりの変身振りである。瀬戸内寂聴氏はその原因として出家をあげている。ただ、女三宮が柏木と逢瀬を重ねたのは一度ではない。何度もその機会はあったということになっている。
 そうだとすれば、確かに受身としての立場であり、現代的には強姦まがいの行為であったかも知れないけれど、女三宮にも柏木に対する気持ちの変化が生まれ、その変化が恋心となり、その恋が彼女を成長させたと見てもいいのではないだろうか。そして出産と言う試練が彼女を更に強くさせたとも考えられるのである。着せ替え人形からの脱皮である。

 さて、懊悩のあまり死の床についた柏木は、女三宮にこんな手紙を送る。「今は限りの命と風の便りに聞いていると思うけれど、どんな具合かと尋ねてくれないことが辛い。私の命が尽きても貴女への愛は消えない。せめて、あわれとの一言を…」。

 これに対し女三宮はこんな風に返歌する。「おいたわしいとは存じますが、どうしてお見舞いに行けるでしょう。ただお察しするばかりです。私も一緒に煙になってしまいたい。苦しい思いは、あなたと私のどちらがまさるかとの煙くらべに」と書き更に「後(おく)るべうやは」と追記するのである。

 これがどう言う意味なのか。形の上では「あなたに後れをとろうとは思えません」という意味だが、全体としては「死体を焼く煙に私もあなたと競う」と宣言し、「あなたひとりを死なせはしない」と言い放ったとも読めるのである。

 これは恐らく出家そのものが現世からの離脱つまり死と類似の概念であり、女三宮が出家することを決めたことを示すもので、そのことによる強さだとは思えるけれども、非常に背丈が伸びたとの感じを受ける。

 間もなく彼女は出家することになるが、そうすればそうしたで源氏はまた駆けつけてきて、よよとばかりに泣いて恨み言をくどくどと述べはじめる。しかし、彼女は頭を横に振って取り合おうともしない。
 出家の翌年、女三宮の持仏開眼供養(礼拝する目的で作った新しい仏像に目を描き入れること)が行われるが、その折も源氏はこんな歌を彼女に送る。「来世まで一緒と約束していたのにあなたは出家し、私は俗世にいる。それが悲しい」。

 これに対して彼女は、「来世と約束しても、あなたの本心はどうなのだろう。一緒になんて思ってもいないだろうに」と、冷たく対応する。
 このように出家後源氏はやたらと甲斐甲斐しく彼女の世話を焼くが、これはもともと、「手の届かないものを無性に欲しがる」という源氏の性癖があからさまに表われている場面の一つだと理解すべきかも知れない。

 こんな源氏の姿勢に彼女も「例の困った好色心からとんでもないことをして」と当惑するばかりである。そしてついに、「植えた人がいない春だとも知らないで山吹がいつもより一層美しく咲いている、それが哀れに思う」(あなたを美しくしたのは私だよ)と源氏が我が身に置き換え慰めを求めて呼びかけるのに対しても、古歌を引用して「谷には春も」(出家した身にとっては花が咲こうが散ろうが何とも感じはしない)と、いかにも冷たい対応をするのである。

 このあたりは、女三宮の大人としての気働きが足りないというか、あまりにも本心があからさまに出ていて、人間関係の機微ともいうべき思いやりとか優しさなどという潤滑油が不足しているとの感じが強い。
 ただ、そうであるがゆえに逆に、この女三宮との関わりは、光源氏といわれ物語の最初からいかにも颯爽とした若者として描かれた人物とは別人の、意地悪で老残の姿を我々に見せてくれる場面でもあるのである。源氏49歳、この「幻」の巻で源氏自身も出家を考えるが、続く「雲隠れ」はまったくの白紙であり物語は空白である。そして次巻の「匂宮」、この時の源氏は既に故人である。