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 そんな中でゴミが消えてしまうという朗報である。こんな素晴らしいことはない。消えるのである。人はひとこと呪文を唱えるだけでいい。そうすれば厄介者のゴミは、たちどころに消えるのである。

 その呪文とは、「ディスポーザー」である。生ゴミを粉砕し液状にしてどこかへ流し込むという、ホテルなどから一般家庭へと拡大してきたシステムである。
 まさに「どこかへ流し込む」のであり、「どこか」とは、流し込む人からは見えない場所だから、少なくともその人にとって生ゴミは目の前から消えていくのである。

 人はかくも横着になった。目の前から消えることが、そのままゴミがなくなったことなのだと、人はいつから信じ込むようになったのだろうか。
 もちろんディスポーザーが、生ゴミを受け付ける下水道なり合併浄化槽などに接続されているだろうことは容易に想像できるし、マンションの販売に当たってもきちんと説明されるだろう。しかしそれを安易に「消える」と表現するところに、なぜかやりきれない思いが残るのである。

 たばこの吸殻が車の灰皿から窓の外へ捨てられることで車内からゴミが消えたのだと思い、使わなくなった冷蔵庫を山の中に投棄することで「我が家はきれいになった」、「我が家からゴミが消えた」と人は思い込む。そのことと、このマンションのディスポーザーのキャッチコピーとはどこが違うのだろうか。

 ディスポーザーは「生ゴミ」を「汚水」に変えただけであり、しかも水を加えて増量したことと同じ意味になるのだということに、どうして思いが及ばないのだろうか。
 「なんでもかんでも粉砕してどこかへ集める」という発想には、どこかとても危ういものがあるように感じられてならない。

 星新一の作品はいつ読んでも小気味よいけれど、そんな中にとても好きでそしてとても怖いこんな作品がある。「おーい でてこーい」(「 ボッコちゃん」所収)である。

 底知れぬ穴を発見した男が、その穴が狐の穴かと思い、「おーい でてこーい」と叫び、石ころを一個投げ入れる。あとは金儲けのためにその穴の利用は際限がない。産業廃棄物から放射性廃棄物、医療廃棄物なんでもござれ、あらゆるゴミをその底なし穴は際限なく引き受けるのである。時は過ぎ、やがてある日、ゴミのないきれいになった都会の高層ビル建築現場で、工事中の作業員がふと空の彼方から、「おーい でてこーい」という声を聞くのである。そして石ころが一個降ってくるのである。

 ディスポーザーで砕かれたゴミは消えたのではない。見えない場所へ移されただけなのである。ゴミの解決にはなっていないのである。質量不変の法則は、物理の授業だけの問題なのではない。ゴミにだって厳格に適用されるのである。
 ゴミの問題は、ゴミそのものを作り出す企業の問題も大きいとは思うけれど、「家庭へ持ち込まない」ことをまず考え、入ってきたゴミを分別し再利用を考えるという、各人の小さな努力も必要になる。

 自治体はいま、「リサイクル貧乏」に悩んでいるという。結局は処理費用と住民の意識とのはざまで揺れているということなのだろう。
 幸いゴミと資源の境界が少なくなりつつある。そのことは科学そして回収システムの問題と関わる面も大きいとは思うけれど、同時にゴミは人が作り出すものでもあり、その処理についてひとりひとりが真剣に考えていく必要があるだろう。「粉砕するだけ」で解決済みと考えてしまうような安易な気持ちのままでは、世の中いずれそこいら中が「ヘドロの海とゴミの山」になるだけである。

                       2004.07.09    佐々木利夫

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  ゴミが消える
  
「暮らしから、ゴミが消える日」・・・・・、新聞に載ったマンションの販売広告のキャッチコピーである(読売04.07.09朝刊)。
 ゴミの問題は、今や現代の解決しなければならないトップクラスの課題である。ほとんどの自治体が、分別化有料化を含めてゴミの減量をそれこそ必死で模索している。