辺 境


 私達は長い間、すべてのものを明るい光の下に引出して、その仕組みを解き、分析し、競って精度を高めることに努力してきた。追いつき追い越すことが、あたかも使命そのものであるかのように思いこみ、経済成長や土地神話や消費の美徳に踊らされてきた。
 いやいや受身でいうのは間違っている。自ら作り出し踊ってきたのである。

 だから今、バブルがはじけたとは言っても、私達は有史以来の豊かさの中にいるといわれている。

 欲望というのは止まるところを知らないのだろうが、豊かさの反語である「貧しさ」というのは、ちょっと考えてみると、ほんの数十年前には大部分の人々が経験したことだと思う。

 「貧しさ」は通常「ひもじさ」に結びつく。ひもじいとは単に「腹が減った」ことを言うのではない。空腹なのに食べるものがないことを言うのである。夕方になっても、明けて朝がきても、空腹を満たす保証がないことを意味するのである。

 いまでは、恐らく日本でひもじさを味わっている人は、僅かの例外を除いて皆無であると言ってもいいであろう。飽食の時代といわれ、レストランやホテルでは食べ残しの料理をゴミとしてどう始末するかが真剣に検討され、なんたることか、都会のねずみが糖尿病にかかっているというのである。

 フランス革命で、王妃マリーアントワネットは、「民衆は飢えている、もはや今日のパンもない」という臣下の言葉に、「パンがなければお菓子を食べればいいのに」と言ったとされているが(注)、現代人は全員がこの王妃とちっとも変わらないのである。誰もが飢えを知らないのである。
  (注)これはマリーアントワネットの言葉ではなく、
    当時のジャーナリストの悪意ある創作であるとされている。王妃の名誉のため念のため。


 家の中は電化製品で埋め尽くされ、タンスの中には好きか嫌いかはともかく、溢れるほどの衣服が詰まっている。毛抜きで骨を抜かれた魚が売られ、包丁もまな板もない家庭が増え、米はとぐのではなく洗剤で洗う始末である。

 こんなに溢れるような物質社会に囲まれているにもかかわらず、人はそれでも豊かさを求めて、欲望ばかりが強くなり、まるで、泉の水をいくら飲んでも喉の渇きが癒されず、とうとう龍に化身してしまった田沢湖の辰子姫のように、常に不満にあえいでいる。

 もう終わって数年になるが、テレビに「にっぽん昔話」というアニメがあって、日本各地の伝説を基にした物語を紹介していた。昔はどの地方にも、山や森やには神様が住んでいたし、沼や池には龍が住み、キツネも蛇も鶴も人間と話ができ、場合によっては結婚すらできたのである。村の地藏さんは子供達の遊ぶのをニコニコ眺め、病気から守ってくれたり、困ったときには助けてくれたりもした。

 しかし、今や、月にうさぎの住んでいることを信じている子供はいないし、雨乞いに応えてくれる神様もいなくなった。

 こうしたことは、単に神話や伝説の世界だけの出来ごとなのではない。
 例えば「縄をこぎる」という表現がある。縄そのものが、もうほとんど見られなくなったのだから仕方のないことかも知れないが、稲わらをよりながら作られた、あのキリキリ絞って、揺るぎなく締めつける丈夫な縄、それが大人の手の中で二つに折られ、チョットひねって、ぐいと伸ばされると、ものの見事に切れてしまう。

 大人の素晴らしさ、男の力強さ…、子供の目から見た大人は、そうした奇蹟の力をもっていたものだったが、残念ながらこうしたものも昔語りになってしまった。

 機械化が集団による労働の場をなくし、同時に多くの仕事歌をなくしてしまったように、こうした伝説とか伝統などの生きている社会というのは、まさしく中央の文化から離れた辺境の地のことであり、現代はそうした辺境をどんどん食いつぶすことで成長してきたのかも知れない。

 まもなく中秋の名月の9月11日である。最近の新聞記事で再度の人間による月世界探査の計画が予定されていることを読んだ。秋風の月を眺めながら、せめて月旅行にでも僅かのロマンを感じてみようか。そして、お月見に供えるすすきは、萱ぶき屋根の材料である萱の豊作を願っての捧げものであることなどに思いを巡らしながら…。