骨なし魚


 テレビのニュースで「骨なし魚」(むしろ「骨を抜いた魚」と言うべきか)が販売されているという報道を見た。
 そしてそれに対する若い主婦の反応が面白かった。「子どもの箸使いができなくなって困る・・・」。

 おいおい、そうじゃないだろう。確かに魚と骨の関係には、箸をうまく使って骨から身をほぐしながら食うという側面があることは否めない。
 だからと言って「ホネ」のないことが、どうして「箸使いができなくなる」ことと結びつくのだろう。

 そんなこと言っちまったら、魚を加工して刺身にすることも、豆をつぶして豆腐にすることも、みんな「箸使いができなくなる」要素になるのではないのか。

 魚からホネを外すことは、「子供たちに大人気」だし、学校給食でも急増し、更にはファミレスでも人気上昇中だという。

 でもこれは何か変だ。絶対変だ。もちろん骨なし魚が、鶏のザンギのように骨なしの便利さがあることは否めない。しかし、魚の種類や食べ方にもよるだろうけれども、一匹丸ごとが基本であろう食卓の魚が、「骨のない魚」だというのは、これは一体何なのだろうか。

 加工業者の中には、「背骨は残すが小骨は全部抜く」という加工の仕方を検討しているという。
 外しやすい背骨だけを残した小骨のない魚、それは「魚には骨があるんです」という教育効果を狙ってのことなのだろうか。

 こんなことはどこかおかしい。イカがするめの形で泳いでいたり、かまぼこが板付きのまま海を漂っているのは、あれは落語の世界だけの話じゃなかったのだろうか。
 小学生にニワトリの絵を書かせたら足が4本あったという、笑えない話もある。

 魚の骨を抜いて加工するというのは、母親が幼児にホネを外して魚を食べさせるのとは訳が違うのである。子どもはそのうちに、魚には骨がないと思うのである。その子はやがて大人になり、父となり母となっていくのである。そして逆に骨のある魚は「変な魚」、「食えない魚」になってしまうのである。

 包丁やまな板のない家庭が増えているという。スーパーでの魚は切り身だし、野菜もカットして売っている。それだけではない、様々な調理済食品が大量に売られており、希望すれば食事そのものだって調理済みで配達してくれるのである。

 多分これは、「隙間産業」とでも言うべき企業戦略の結果なのでもあろう。付加価値を高めるためならどんなことでもする、そうした戦略が、食べやすい、調理時間が節約できる、食事の多様化が図られる、糖尿病者向け食事作ります、などという、もっともらしい理屈に隠れて広がって行く。
 そしてそれが、例えば「魚の姿」そのものを変化させることにつながっていく。

 だからと言ってそのことを加工業者の責任にするのは筋違いだろう。むしろそれは、購入し、調理し、そして食べる側の責任だと思う。
 たとえ骨なし魚を食べようとも、実際の魚の姿を今の人ならまだ知っているだろう。その子が、魚に骨がないと思い込むまでにはまだまだ時間がかかるだろう。

 魚に骨があることを教えるのは親の責任である。それは人間にも骨があることと同じことだからである。
 解剖しながら魚を食べる必要はないだろう。ただ、本当の魚を、本当のニワトリを、飛んでいるトンボや蝶を、花や実はどのように木に付いているのかを、そうしたありのままの自然を、親は子にきちんと伝えていく責任があるのではないだろうか。

 ひとりの事務所はのんびりしているから外食の必要もない。昼飯に魚を焼いてを食うことはないけれど、冷蔵庫にはたまねぎやレタス、白菜、キャベツなどの野菜そして卵などが入っている。インスタントラーメンにこれらを適当にぶち込むのも良し、煮込みうどんにするも良し、レタスとさばの水煮缶詰で簡単なサラダを添えるのもいい。

 ところで、ところで・・・・・・、さばの骨ってこんなに柔らかだったんだっけ??????。

            2004.1.30       佐々木利夫