法律を守ること

 子供のころ、仲間との口げんかで、負けそうになるとよく「そんなことどこに書いてある」と叫んでいたことを思い出す。それは、「してはいけないこと」と「法律で禁止されていること」とが同義であるという前提が、子供心ながらそこにあったということであろう。

 もちろんそれはこうした前提が正しいというのではなく、ある理屈を相手に理論的または実証的に証明できない場合であるとか自分に歩が悪い(多分に後者である可能性が高い)場合に、最後っ屁みたいに発した言葉だったと記憶している。

 最近の少年犯罪を巡る風潮などを見ていると、そんな自分の昔を思い出す。
 ただ、今の時代は子供だけでなく大人ですらがこうした考えを持っており、それは法治国家として当たり前の考え方であると思う反面、どこかで踏み違えているのではないかと思うことしきりである。

 確かに罪刑法定主義は法治国家の基本であり、何人も法律の定めによらないで刑事罰を課されることはないし(憲法31条)、税金だって同様である(同84条)。
 だから法律の禁止なくしてある行為が司法や行政の場で罰せられたりまたは強制されたりすることはないと考えてよいであろう。

 しかも、法律はそのほとんどが「してはいけない」と書くことはない。「人を殺してはいけない」のではなく、「人を殺した者は死刑もしくは無期…」であり(刑法199条)、「脱税してはいけない」のではなく、「所得税を免れた者は5年以下の懲役…」(所得税法238条)なのである。
 だから「してはいけないと書いていないから…」という解釈が成り立つのかも知れないけれど、「法律が規定していない」ということと、「規定していないことはしてもいい」ということとは違うのである。

 子供が喧嘩の果てに「そんなことどこに書いてある」と叫ぶのは、勝てない者の負け惜しみである。理不尽を知った上での最後っ屁である。負けを知っている者の空元気である。その喧嘩はそれを言ったことで言った者に僅かの余韻を残して負けが確定し、決着がつくのである。

 そんな理屈が現在では自分の行為の正当性に結びつけることに使われ過ぎている。子供の喧嘩のレベルならまだしも、こうした理屈が社会生活の面で多用されることは、どこか間違っていると思う。法律で禁止されていなくても、「してはいけないこと」は数多くあるのである。してはいけないと法律で禁止するのは最後の場面であって、人間としての行動規範はそれ以前の社会に対するその人間の美意識、自分の価値観に対する美意識の問題としてあらかじめ存在しているのである。

 最近は特に環境問題などでもこうした開き直りがとても目立つようになってきているような気がしてならない。産業廃棄物やゴミの山奥への投棄、食品添加物の許認可など、法律の規制が間に合わないというところにも問題はあるのかもしれないが、法律がないと身動きできないと嘆く行政も、規制する法律がないから適法だと開き直る業者も、どっちもどこか間違っているのではないだろうか。

 こういうことは広く、例えば「他人に迷惑をかけるな」という、どちらかというと自律的に己の中に組み込まれるべき常識の世界にまで広がってきて、「他人に迷惑をかけなれば何をやってもいい」という状況にまで達している。
 援助交際、非行、公共交通機関内での化粧、ゲームセンターでの遊興、麻薬、ジベタリアンなどなど、自分だけの身勝手が、結局自分を傷つけ、仲間を傷つけ、そして結果的に回りの人間をも傷つけて行くことに、どうして気づかないのだろう。それしきの簡単な予測すらつかない世の中にどうしてなってしまったのだろろう。

 もちろん「他人に迷惑をかける必要がある場合」だってある。車椅子で交差点が渡れないなら、堂々と渡してほしいと見知らぬ他人に声をかけていいのである。体の具合が悪くなったらなり振りかまわず見知らぬ他人に助けを求めていいのである。
 乗り物に老人優先席ができたり、小学校に給食指導員ができたりすることは、大義名分の上ではいかにも必要なのだろうけれど、そんな強制され義務化された擬似的な優しさが必要とされる時代というもの自体が、どこか変である。規則やマニュアルがどんどん増えて行って、自分の価値観で行動するという場面が狭まってきている時代というのは、自分で考えなくても良い、または自分で責任をとらなくてもいいという気楽さを示しているのかも知れないけれど、それで本当にいいのだろうか。

 人が自立を自ら放棄し、または無意識に放棄させられている時代、このことは社会もまた自立できないでいるということなのかも知れない。

 おだやかで静かな昼下がりの一人の事務所、コーヒー片手に一人相撲の怪気炎を上げているだけでは、迫力のないことおびただしいし、しかも、「そう言うお前はどこまで自立できているのだ」と自問すれば、「さあ、コーヒーもう一杯」などと自ら話題を逸らそうと考える、そんな程度の迫力に欠けた繰言である。