私が子供の頃(もちろんそれ以前)からの伝説的な話に、「象の墓場」と言うのがある。象は死期が近づくとみずからの意思で決められた墓場へ向かうと言うあれである。象のことはとも角、身近なハトもスズメもカラスも死骸なんぞ見たことはない。だから動物はそれぞれ自分の死を知っていて、死体が見つからないようにして死ぬのだと言うもっともらしい話すらある。

 実際は、象の場合は大量虐殺したハンターが、大量の象牙を手に入れた理由付けのために勝手に作り上げたほら話だと言うのが本当らしい。
 また、ハトやカラスの墓場を見つけたと言う話も聞いたことがないところを見ると、「自分の死」もしくは「生物の死」そのものを知っており、そしてその死を知りながらもなお生き続けているというのは、恐らく人間だけなのではないかと思う。

 つい最近、いつもの飲み仲間がこんな話をし始めた。
 ゴルフをしている最中に、一匹のリスが数羽のカラスに追いかけられていた。リスは必死に逃げようとするが、なんといってもゴルフ場、逃げ場所はない。やっと見つけた木に登っても、これも空からの攻撃にはなすすべもない。プレー仲間はそろってクラブを振り回してカラスを追い払おうとするのだがとても届かないし、リスそのものを保護することもできない。結局後続するプレーヤーの順番に押されそのままにしてしまったが、どうやらそのリスはカラスの餌食になってしまったらしいという話である。

 さてそこで屁理屈を得意とする私の出番である。
 それは弱肉強食の当然の結果なのではないのか。カラスが肉食(正確には雑食らしいが)なのはカラスのせいではない。もしカラスが芝生の虫を啄ばんでいたとしてもその虫を助けようとするだろうか。
 鷲や鷹が狩りをするのは勇壮な正義で、カラスの狩りは卑劣な悪だと、どこかで偏見を持っているのではないか。
 しかも、リスの命を助けようと考えたのなら、途中でその努力を放棄してしまったのは助けようと思ったことと矛盾するのではないのか。

 まあ結局は、常識と正論の対立と言う二律背反のまま、酔いどれ同士の議論はあっと言う間に雲散霧消してしまったのだけれども、実は私も数日前の通勤途中の路上でハトとカラスという同じような場面に遭遇し、どうやらハトを草むらに隠すことには成功したものの、結局はそのまま放置してきたという経験がある。

 そんなこともあって、どうして正論が成立しないのかがどうにも気になって仕方がない。背景の一つには当事者の一方が、仲間も言うとおり、いかにも見かけが悪く、そして人間にとって有益とはちっとも思えない、時には人間を襲うことすらあるカラスという存在がある。鷲や鷹のような勇猛さや気高さは微塵もなく、毎日のゴミ捨て場の生ゴミをあさり散らかす黒い迷惑者である。

 そうした憎まれものの命は、可愛くて無害で弱々しい命とは別の価値を持つのだと、人間は無意識に評価しているというのが原因かも知れない。
 命の価値についてはこれまでも何度か触れてきたところであるが、人はこんなにも単純に命の峻別をするのである。ゴキブリは一撃の下に打ち倒されるけれど、コオロギは自然死するまで餌を与えられ続けるのである。

 「殺す」と「殺される」を、「正と邪」に置き換えて理解することは、命を単純化する上では至極便利な方程式だと思う。しかしこのことを更に、正が善で、邪が悪と言うように置き換えるなら、その構図がいかに誤りに満ちているかがはっきりする。
 この方程式を認めてしまったら、人は肉も魚も食えないし、生命の範囲を植物にまで広げてしまったら、「生きていくこと」そのものを否定することになってしまうからである。

 確かに人間の生存の過程で、「殺す、殺される」が正邪となる場面を、我々は数多く見てきたし、歴史だってそのことをいくつも証明している。
 ただその正邪は、人間社会であっても限られた一部分のことであり、少なくとも動物が狩りをすることや、樹木が葉を茂らせて弱小植物を駆逐している過程には存在しなかったであろう。

 人は自分だけでなく人間そのものがいつか死ぬことを当然のこととして知っているし、動物や植物にも命のあることを知っている。
 そして「命の大切さ」を理解することが何より大切なのだと、人は繰り返し学んできたはずであり、その前提には基本的に「命の等価性、等質性」があったはずである。

 もちろん、聖書の「汝、殺す勿れ」だって普遍的な人類愛ではなく、特定の民族間の掟、つまり「同胞を殺すな」という意味だとする解釈のあることくらいは知っている。
 命の重さが人と人以外とでは違い、人同士だって自分と他人、そして他人にしたところで己との距離によって異なることくらいは立証以前の公知の事実なのかも知れない。

 命の問題、死の問題は、いつもここまで来て行き詰まる。命の順番は誰が決めるのか、人は「いのち」というものをどこまで包括して考えればいいのか。
 人は死を知りながら生きていく生物である。だからこそ、命とはなにかというジレンマに、向き合い、そして逃げ、時に思わぬ方向から不意打ちのように仕掛けられ続けるのかも知れない。

 こうした議論を、常識と正論と言う対立で割り切ってしまうのは誤りなのだと思う。「弱肉強食は世の習い」だとして割り切ってしまうよりは、「可哀想だから少しでも助けよう」と思うことのほうがずっといいに決まっている。
 ただ、そうした助けようとする価値基準が、今の時代は余りにもエゴに偏りすぎているのではないか。「助けようと考え、そして行動している、とても優しい自分」というその立場を、「そんな風に考えない人」よりも正しい位置にいると思うことは、自己満足にしろ誤りではない。

 それにしても、そうした考えに無批判に漬かっている内に、人は無意識に「命の峻別」をしてしまっているということに気づかなくなる。その峻別が人としての常識であると思い込んでしまう。「自分の価値観による命の分別」は、結局のところ死を知りながら生きている人である以上、避けられない習性なのかも知れない。

 しかし、どこかで「命の等価性」ということに思いを入れていかないと、「可哀想な命」という発想だけでは、「可哀想でない命」の切捨てが、いつの間にか命に対する自分の驕りみたいなものを作り上げていくような気がしてならない。

 戦争やテロ、路上殺人や幼児虐待・・・・、そして逆に戦争難民や遺児などを救おうという善意の塊にも、命に対するエゴが次第に広がりつつあるような気がしてならない。
 現代は「命の重さ」を自分の価値観だけで決め、それで良しとする時代なのだろうか。

 ところで、ハトやカラスの墓場についてこんな話を聞いたことがある。
 「人に見られていない生物は、死と一緒に一瞬にして消えてしまう」というのである。私はこの話がとても好きである。なぜか奇妙に納得しているのである。「そうだ、そうだ、それでいいんだ」と、勝手に嬉しがっているのである。
 人間のエゴを、いかにも気持ちよく、ざっくりと切り捨ててしまうかのようなこんな話を、私はいつまでも応援したいと考えているのである。


                       2004.06.23    佐々木利夫


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