命の順番


 先に発表した「戦争と平和と」では、生命の等質性を基本において書いてみた。そのこと自体は間違っていないと思うのだけれど、そうした戦争という次元とは別に、犯罪であるとか死刑であるとか、更には尊厳死などというテーマを考えるときに、生命の等質性という発想はどこか違うという感じがしてならない。

 つまり、命というのはある場面では普遍的な価値というか、絶対的かつ、比較してはならない価値として評価すべきだと思うのだけれど、別の場面では個別的であり、むしろ一つ一つを単位とした評価という発想がどうしても必要になるのではないのだろうか、ということである。

 例えば一番簡単な例として、「自分の命」を考えてみよう。理屈は色々つけられるだろうし反論も可能だとは思うけれど、「自分の命」が「自分以外の命」と比べ物にならないことは、証明を必要としない当然の前提として考えてもいいのではないか。もちろん小説でもドラマでも、自分の命より大切なものをテーマとした作品が多々あることは承知している。

 しかし、そうしたドラマでも「自分の命」というものをギリギリ検証した上での選択という設定になっていることに気づくべきである。自分が生きぬくことは生物としての本能であって、目の前に迫る危険を避けるのは、自分の命を守るなどという理論的選択の結果なのではない。自分の命は他と比すべくもない絶対的な「守らなければならないもの」として命そのものの中に組み込まれた価値観なのだと思う。

 このことは例えば刑法における正当防衛にもはっきりと表われている。急迫不正の侵害に対して、自己または他人の権利を防衛するため、やむを得ずした行為は罰されないのである。侵害される恐れのある命は、自己のみならず他人の命であっても、加害する者の命を奪ってでも防衛することを、国家は許容しているのである。 

 それでは、他者同士ではどうであろうか。「国家対個人の命」については、恐らくこれからも数多く議論されるであろう死刑廃止ともからめて、あらためて議論したいと思うのでここでは省略したい。
 ただ、自分以外の命について、人はすべて等質と考えているのかと問われれば、薀蓄を傾けるほどの実力を持っているわけではないし、結局は独断でしかないのだけれど、「否」と言いたい。

 例えば自己との距離の関係である。配偶者、子、親などなど、それに友人、知人、場合によっては近隣、同じ町内、同窓生、同郷人などいくらでも広げられるが、その濃さの程度に比例するかどうかはともかく、かなりの相関を持って、これらの人々と無関係な第三者の命とはその価値が違っていると感じるのはごく普通のことであろう。

 更にそれだけではない。無関係な第三者相互間であっても命には順番があるのである。
 ではその順番をつける価値観とは一体何なのか。それは恐らく定義付けのできないものであり、むしろ命を考える各人それぞれの価値観、死生感、人格そのものによるものであろう。

 SFとしてはけっこう人気が高いもののそれほど人口に膾炙している小説ではないから、例示としてふさわしくないかもしれないが、トム・ゴドウィン作の「冷たい方程式」の中にこんな一節がある。

 この物語の主人公は、遠い宇宙の果てに発生した伝染病の治療薬をその地区に運ぶ一人乗りの緊急宇宙船のパイロットである。緊急のため一人分の燃料しか積まず、計画外の質量は燃料の余分な消費となる。そこへ兄に会いたいというそれだけの理由で密航した若い娘。パイロットの使命は、治療薬を届けること、そしてその障害となる余分な質量の艇外への遺棄である。

パイロットはつぶやく。
 「もしこれが低い反抗的な男の声だったら、…1分以内にその体は宇宙空間へ放り出されたはずだ。〜もし男であったなら。」
 「どうして彼女でなく、何か言うにいわれぬ動機のある男が来なかったのか?。未開の新天地で生きのびようとする逃亡者、金の羊毛を一人占めにしようと新しい植民地への輸送機関を捜していた日和見主義者、使命感にとりつかれた狂人……」

 こんな例示を引くまでもない。男よりも女、成人よりも老人や子供や赤ん坊、健康な者よりも弱者、金持ちよりも貧乏人、もっと言えば美人の方がそうでない者よりも相対的に命の順序は上位なのである。

 モーゼは神から戒めの第一として「汝、殺すなかれ」の啓示を受けた。だが、この言葉はすべての殺人を禁止したのではなく、「同朋を殺すな」という意味だったという解釈を読んだことがある。その真偽はもう少し勉強していかなければならないだろうが、そう理解したほうがストンと気持ちの中に落ちてくるような気がする。

 このように、命というのは、「地球よりも重い」という側面と、「その重さには順番がある」という側面の二つを有している。
 だからこの二つを混同してしまうと、同一のテーマで議論していると理解しているにもかかわらず、実は共通の地盤に立っていないという結果を招くことにもなりかねないのである。

 命の問題は今後、戦争、死刑、犯罪、病気、自殺、臓器移植、尊厳死、遺伝子操作などなど多くの問題と関わってくるだろう。人それぞれが命をどういうものとして捉えているのか、捉えていくのか、「終わりある生」のその終わりまでを命と呼び、それと自分との関わりをどう作っていくのか、考えてみるとこのテーマは、私が死ぬまでのけっこう楽しみな問題の一つなのかも知れない。

 そして、ここでは「人の命」を中心に考えたけれど、命は人だけの問題なのではない。動物にも植物にも、もっと言えば害虫にも病原菌にも命はあるのだし、人間に役立つか否かでその価値を決定していいのかという問題もある。ギリギリ詰めていけば、命の定義だって「自己増殖、自己複製」ということだけで決めつけてしまっていいのか、という問題も出てくるだろう。

 自分が歳をとってきたから気づいてしまうことなのかも知れないが、最近は命を巡る問題が新聞でもテレビでも多すぎるような気がしてならない。そして、それが命を大切にするというのではなく、むしろどんどん粗末にされていくような風潮であり、そのことがどうも気がかりである。

 間もなく秋分の日である。ひとりの殺風景な事務所にも、そぞろ秋風が身に染む頃になってきた。こんなテーマがふと頭をよぎるのも、仕事もしないでうとうととうたた寝を繰返している彼岸の風のせいでもあろうか。

 「うつせみやわたしもかふになりました」

 ラジオからふと聞こえた、とても素直な川柳である。蝉の抜け殻に託した何の衒いもない無色の歌である。透明な命の歌である。しみじみと身にしむ、たった一つの命への鎮魂歌である。命はそれぞれなのである。

                   1903.9.21  佐々木利夫