スーパーでもコンビニでも、レジの前では客が変わるたびに女店員から同じ言葉が無機質に響いてくる、「いらっしゃいませこんにちは」。
 この「いらっしゃいませこんにちは」という言葉には、空白も句点も読点もなく、のっぺらぼうな単なる「一つの語」なのである。
 下を向いたまま、商品を入れた買い物カゴを引き寄せながらのこの声は、レジに表れた商品の価格を読み上げる声と同じように、なんの抑揚もない。

 「いらっしゃいませ」も「こんにちは」もあいさつの一つだろうし、あいさつにはあいさつとしての感情があるはずなのだが、レジの店員の声からはそうしたあいさつ感がちっとも伝わってこない。

 もちろん入れ替わり立ち代りの買い物客に対して、いちいち相手の目を見つめて、にっこり笑いながら感情こめてあいさつして欲しいなどと思っているわけではない。

 ただ、余りにも無機質なその声からは、「あいさつ」本来の持っている、礼儀、尊敬、歓迎、感謝、喜び、何でもいい、そうした言葉に込められた情緒がすっかり削ぎ取られてしまっている。

 それが例えば、商店の玄関ドアなどに取り付けられて、人が近づくたびに自動的にスイッチが入って「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ」と繰り返したり、大型トラックのウインカーに連動して「右へ回ります、右へ回ります」などと繰り返す合成音声なら、うるさいとは思いながらも聞き流すことができるけれど、生身の人間が同じようになっているというところに、なんとなく現代の怪談を感じてしまう。

 いくつも並んでいるレジのあちこちから、まるではんこで押したように同じ言葉が聞こえてくる。それはきっと「来客にはそのように言うように」とのマニュアルがあるからなのだろう。だからその言葉は店員が客に向かって語りかけると言うのとは少し違って、マニュアルにそう言えと書いてあるから言う、というのが正しい理解なのかも知れない。

 恐らく文字としてのマニュアルには、「いらっしゃいませ」と「こんにちは」は、二つの語として書かれているはずである。少なくともこの二つの語の間には、句点か読点かが打たれているはずである。にもかかわらず、一人の例外もなく、店員はテープレコーダーのようにこの二つの言葉を一語として繰り返すのである。
 時にはどちらか一方の言葉だけにしたほうが、あいさつとして通用するのではないか、場合によってはこの言葉を言わないで、例えば「いいお天気ですね」とか「大変な雨ですね」など言ったほうが人間らしくて良いのではないかなどと思っても、それは無いものねだりなのである。

 レジを打ち終わり、合計金額を伝える声にそのまま引き続いて、店員は次に並んでいる客を目の端に捉えらながら、買い物カゴを手許に引き寄せ、下を向いたまま無表情に再び同じ言葉を繰り返すのである。
 「いらっしゃいませこんにちは」

                        2004.03.16    佐々木利夫


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