直線上に配置
 年末、このホームページに、「天職と自分探し」と題するエッセイを発表した。老税理士の気ままなひとり言のつもりだったのだが、思ったより反響があり、何人かの方からご意見をいただいた。
 もらったままでは借金漬けになっていくようで、なんとか返事を出そうと思ったのだけれど、それぞれの方の考えていることが余りにも重かった。せいぜい共感できるのが限度で、とても私ごときに一部にしろ背負えたり助言できるような甘いものではなかった。
 この文章はその返事のつもりで書き始めたのだが、やつぱり答えになっていないという気がしてならない。
 そうしたギャップの原因の一つには、自分では人並みに悩んできたつもりではいても、やはりどこかに比較的平穏で安定した人生を過ごしてきた者のどうしようもない甘さがあるからかも知れないと思いつつ、それもまた私の生き様なのだと観念して駄文を続けることにする。

 今から10年少し前のことになるけれど、「くれない族」という言葉が流行ったことがある。「今時の若い者論」の一つなのだが、「教えてくれない」、「与えてくれない」、「言ってくれない」、だから「私ができない(しない)のは当然」という若者の風潮を、大人のいわゆる管理者が嘆いて付けた名称である。
 管理者としては、「言われる前に自分で考えろ」と言いたいのだろうし、「自分探し」とは、まさしくそうした自己決定できる人生を自分で見つけ出すことなのだと言われてしまえば、そのことに反論の余地はない。

 しかし、これから社会に飛び出そうとする若者に将来設計を持って人生を考えろ・・・と言ったって、そんなことは無理だと思う。現在を生き生きと活動している大人だって、高校や大学を卒業する頃に、自分の将来を見極めてから「わが人生」を踏み出したなどと言える人は、恐らく皆無に近いのではないだろうか。
 もちろん自分の将来を考えることは大切、いやむしろ必要だとは思うけれど、そんなに考えてばかりいたって答えのでるものでもないだろう。歩き出してから考える、これもまた人生である。

 だからと言って、何でもかんでも他人に決めてもらわないと動けない「くれない族」でも困る。「教えてくれない、与えてくれない」と言ったところで、「お前は何ができるんだ」と問われて、「一生懸命やりますから、それも見つけて指導してください」なんて言われた日には、どうにも返事のしようがなくなってしまう。

 それでもやっぱり、自分探しの一番の基本は「自分で決めろ」、「流されるな」の二つに尽きるのではないだろうかと私は信じている。
 もちろん「自分で決めた責任」は自分が全面的に負うことになるし、その場合、例えば結婚をしているならば家族をも巻き込むことにもなってしまう。だからと言って他人に決めてもらったところで、その責任を他人に押し付けるわけにもいくまい。
 そして決めるときに一番難しいのは「流されない」ことである。人はどんな場合だってしがらみを引きずりながら生きているから、それらに流されないように自分の意思を固めていくと言うのは、けっこう難しい。
 これに対処するにはどうしたらいいのか、その答えは私の半生を振り返ってみても、これといった秘策は見出せそうにない。
 ただ一つ言えることは、「自分で決めなければならないこと」を、まず自分自身にきちんと言い聞かせること、そして、そのために「真剣に悩む」ことなのではないだろうか。
 悩み、そして迷う。そうさ、それが人間ってもんだから。悩み、迷うことに意味があるんだと思う。にもかかわらず、その結果が一つの方向に固まっていくことは、多分ないだろう。だから最後はやっぱり、跳ぶしかないんだろうなと思う。

 私が高校生のときに、誰からもらったのだろう「憂愁の哲理」(キエルケゴオル著、宮原晃一郎訳、春秋社)という本を読んだことがある。以来、今日までこの本に付きまとわれ書棚で埃をかぶっているが、まるで歯が立たないというのが実感である。ただその中に「あれか、これか」という一文があり、著者はこんなふうに書いている。

 結婚し給え、君はそれを悔いるだろう。結婚しないでいたまえ、やっぱり君は悔いるだろう。結婚してもしないでも、いずれにしても君は悔いるのだ。世の中の愚を嗤うも欺くも、一人の娘を信じても信じないでも、首をくくってもくくらないでも、いずれにしても君は悔いるのだ。

 ほとんど理解できなかった本だったけれど、この部分だけが妙にストンと心に落ちてきた記憶があり、時々はこの部分だけ読み返している。
 だとすれば、迷いの決断は他人に決めさせるのではなく、自分で決めるしかなかろう。どの道、もう一つの道を選ばなかったこと、ある道を選ぶにしろ、見過ごすにしろ、その選択に対して人はいずれ後悔すると言う。ならば自分で決めた結論なら、すっきりできるかどうかは別にしても、諦めがつくというものである。

 「あれか、これか」は私にとって、折に触れ、生きていく背中をそっと押してくれた、数少ない言葉の一つである。

                   2004.2.3   佐々木利夫

       トップページ   ひとり言目次   気まぐれ写真館   詩のページ


アイコン     再び「自分探し」について