「一生懸命の結果」ではなく、「一生懸命そのもの」に拍手を送るのは日本人だけの特徴なのかどうか分からないけれど、どうやら日本人は才能よりも努力(と言うよりは努力する経過)に価値を置く傾向が強いようだ。

 日本では、能力のある者が普段は不真面目なのに、ひらめきで素晴らしい結果を出す仕事をすることよりも、たいした成果はあがらなくてもコツコツまじめに出勤し、仲間ともきちんと付き合い、休まず、時にはサービス残業などもしている者のほうを評価する風潮がある。

 でもそういうような考え方は、幼稚園の運動会かせいぜい高校野球程度のレベルまでで良いのではないかと、このごろ思うようになってきている。プロ野球なら凡打で必死に走ったって、セーフになるはずはないと思うからである。
 一生懸命走る姿は、ひたむきで感動するかも知れないけれど、企業にとっての評価すべき成果とは、努力するスタイルではなく仕上がった結果なのだろうと思うからである。
 そりゃあ勿論、凡打だって相手がミスして塁に出る可能性がないとは言えない。だから高校野球の全力疾走は、予測される勝敗にかかわらず、凡打にもミスにも観客は拍手し、それが感動を呼ぶのである。

 しかし、ウサギとカメの話は高校野球のような素人の話ではない。ミスなど考えられないレースである。確かにウサギはミスを犯した。途中で居眠りをするという、前代未聞の大不祥事を犯した。
 でも相手のミスによって勝者になれたと言うこの話には、どこか純粋でないものを感じてしまう。

 この話の「向こうの山までの駆けっこ」に対する報酬は、どちらが先に着くかという勝敗そのものであり、そのほかに金銭や物やサービスなどの条件はついていないようなので、それはそれでいいのかも知れない。

 この話の寓意は、「使わない才能よりは不断の努力」であるとされている。だから才能のない者だって、不断の努力さえ続けていけば勝者になれる、「弱いもの頑張れ」というメッセージだとされている。

 でもそれは間違いではないだろうか。カメの勝利は努力の結果によるものではない。いつもよりたくさん努力したのではなく、いつも通りだったのにウサギの犯した予測できないミスによって勝てたのである。
 カメにはあらかじめ、途中でウサギが居眠りするだろうと言う預言者のような能力が与えられていたと言うならそれはそれで良い。カメにはウサギにない予知という能力があったのだから。また、能力のあるものは必ず能力に溺れて居眠りをするものだと決まっていると言うならそれも良い。能力には反作用がつき物であり、トータルではどんな勝負も平等になるように神様がはじめから仕組んでいるのだと言うならそれもいいだろう。

 でもそれならウサギの負けはあらかじめ定められていたことになるのだから、ことさらウサギを責め、またはカメを賞賛するのは筋違いになるだろう。

 それではこの物語は何を言いたいのか。そんなに単純に不断の努力こそが勝利の条件なのだと、したり顔で説得しようとするのは間違いなのではないだろうか。

 この駆けっこで分かるように、ウサギは絶対にカメに勝つだけの才能を持っている。カメの不断の努力なんて、この競争に関しては屁のツッパリにもなりはしないことは、物語の端々にはっきりと語られている。ウサギは走ることに関しては誰もが認める実力者なのである。

 そうなのである。このウサギとカメの物語は、才能あるものはその才能を使えということを伝えているのである。ウサギの失敗は途中の居眠りである。途中で眠ることが競争の条件に入っているならまだしも、この居眠りはウサギの慢心である。
 いやいや、慢心だって悪いとは限らない。慢心するだけの実力がウサギには備わっているのだから、「鶏を裂くに牛刀の要らない道理」である。
 ウサギは慢心したって構わなかったのである。ただ、「向こうの山のてっぺん」に着き、カメとは実力が違うことを皆に証明したうえで、それからゆっくりと昼寝をすれば良かったのである。いや、もっとぐうたらでもいい。カメに勝てる余裕の時間だけ目覚ましかけて眠れば良かったのである。

 ウサギはカメなんかには負けないのである。負けないことは誰もが認めるウサギの実力であり才能なのである。才能ある者は才能を生かさなければならないのである。
 才能あるものはその才能を正しく理解せよ、これがこの物語の本当の意味なのである。その意味に気づいたウサギは決してカメになんぞ負けないのである。たった一度の居眠りで、生涯そのウサギは敗者になるのだと、そんなに単純に思うのは間違いであり、この物語をそのように読ませるのも誤りだと思う。

 このお話はカメへの応援歌として理解するのが常識的な解釈なのかも知れない。でも私はたった一度の失敗にくじけるなと言う、ウサギへの高らかな応援歌だと思いたいのである。そう思うことで、ウサギの犯したミスの意味が見えてきて、才能の本当の意味が理解できるのではないかと思うのである。

 そしてそれ以上に、これは競争なのだからウサギとカメは同じコースを走ったはずである。そうだとすれば、カメは途中でウサギが眠っている姿を見たはずである。にもかかわらず、カメはウサギを起こそうとはしなかった。
 どうしてか。「ルールになかったから」というのも理屈ではあるが、カメはウサギの居眠りを起こせばこの勝負に負けること、つまり、このまま黙って見過ごせば自分が勝てると思ったと考えたことのほうが、もっともっと合理的な説明になる。
 そうしなかったカメを卑怯とは呼ぶまい。しかし、あらゆる読者から正直で善良と信じられているカメの姿勢としては、やはりどこか不純なものを感じないだろうか。もしウサギを起こしたなら、カメは間違いなくこの勝負に負けていたのだから・・・・。

 もしお疑いなら、これから続くすべてのウサギとカメの競争に、あなたはカメに、私はウサギに賭けてみることにしよう。ウサギにこの程度の学習能力さへないのだとしたら、足の速いことはウサギの能力でもなんでもない。単なる筋肉馬鹿の証明でしかない。答えは・・・・・・・、お分かりですね。
 それとも、あなたもやっぱり日本人だから、こんな態度のウサギは、そもそも嫌いですか・・・・?。

                            2004.07.23    佐々木利夫


             トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ

ウサギとカメ