飢えが、少なくとも日本の人々の間になくなってきて、飽食という言葉さえもが忘れかけられようとしている。代わりにグルメだの肥満だのという言葉が日常で当たり前のようになってきた頃から、その反作用みたいに人は神棚や仏壇に食べ物を供えることをしなくなってきた。

 信仰の喪失だなどと表現すればなんだか全部説明できてしまうような気もしないではないけれど、人々が満腹し始めると同時に、神は飢えだしたのである。

 結局神の信頼度というのは信仰する人々の信仰心の総和と一致するのであり、しかも信仰する人々個々の信頼度というのは、なぜか古来から飢えと分かちがたく結びついているのではないかという気がしてならない。
 このことは例えば中東での紛争や、インドの貧民の映像などからも実感することができ、こんな風に表現するのは必ずしも適切ではないとは思うけれど、貧しければ貧しいほど、人は信仰に頼るような気がする。

 そうした意味では、現代は神を必要としなくなったのだと言えるのだろう。人間が生きるための基本は、なんだかんだと言いながらもやっぱり食べることだろうし、「じゅげむ」の落語ではないけれど、「食う寝るところに住むところ」さえあれば、人は神様を必要としなくなっていくのかも知れない。

 飽食は神を飢えさせただけではない。食うことも含めて、満足という怪物は、人間の基本となるべき様々な知恵と呼ばれてきた事象を日常から追い出してしまったような気がする。

 言論、宗教、焚書、演芸・・・、そのほか科学と呼ぼうが芸術と呼ぼうが、人の営む精神生活は、私の乏しい知識ではきちんと論証できないのだけれど、弾圧であるとか圧制などを栄養にして少しずつ広がってきたのではないだろうか。

 そうした弾圧や圧制を奨励するつもりはない。しかし、そうした抑圧から解放された現代の人々の生活は、精神の拠りどころとなる基本的な支えを失って、エゴの世界に埋没しようとしている。
 そうした現代とは、まさしく自分以外への無関心がはびこる現代であり、そうした中で信仰心の枯渇した文化の残滓だけをすすり、神はまさに死にかけようとしている。

 抑圧の代替物を見つけられないままに与えられた満腹とは、かくも「幸せ」であり、同時に「底知れぬ恐怖」でもある。人は自らの信仰をどうしたら新しく見つけ出すことができるのだろうか。



                        2004.08.30    佐々木利夫


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飢えている神