人はよく「顔より心だよ」と言う。それはそうだ。ただ、「心」ってやつは目に見えないのが問題だ。見ただけですぐに分かる顔に対し、心を知ることはとても難しい。

 「見えない心」は、やっぱり付き合うとか話をするなどの方法で、しかもある程度の期間を経ることによってのみ理解できるようになってゆくのである。
 この理解に時間がかかるということは、「顔より心だよ」が本当のことであるだけに、とても不幸な現象である。大切なことが見えにくくて、より本質的でないものの方がよく見えるということは、その本質にとっての不幸である。

 人が美醜にこだわるのは、それがすぐに判断できるからである。「見かけで人を判断するな」とはよく聞くことだけれど、見かけがすぐに理解しやすいからこそ、「第一印象は大切なのだ」と、人はこれまでの長い間幼い子どもや未完成の人々に説いてきたのである。

 つまり、「心がきれい」なことこそが大切なのだけれども、それを理解してもらうためには、理解してもらう相手との間に「理解してもらうための時間」が必要であり、その時間を稼ぐためには、顔もきれいな方がずっとずっと得なのだということを説いてきたのである。そして更に服装やアクセサリーなどで外見を磨いて印象を向上させることは、「きれいな自分の心」を理解してもらうための前提となる条件の一つだということでもあるのである。

 ある程度の期間の付き合いがなければ、人は人の心を理解できない。そうであるなら、そのきっかけを作る手段として、人はやっぱり「顔も大切だ」と言わざるを得ないだろう。そもそも「理解してもらうためのスタート台」に立たないことには、何事も始まらないからである。かほど、美醜は時にとても残酷なものなのである。

 もちろんどんな場合にも救いはある。心はやがて顔に表れてくることだろう。知性も教養も、少しずつではあるが自然に顔や動作に表れてくることが多い。
 ただそれには、多くの場合年輪を重ねる必要があるし、手っ取り早く、そして一番必要で大切に感じる年齢、つまり、若いときには、とてもとても間に合わないのである。

 「良い顔の年寄りになる」ことは一つの理想ではある。年輪を重ねた柔和さに人は心からほっとするし、隠された鷹の爪の片鱗に落ち着いた知性とゆとりを感ずることができる。でもその時では遅すぎると感ずる気持ちもまた本心なのである。

 ところで、「見えない心」は、見えないがゆえに隠すことも可能となる。もし、心が顔のようにすぐに分かるとしたら、人は家族のみならず友人、更には社会や世界のようなそもそも集団と呼べるものを形成していけなくなるかも知れない。人は時に自分にだって心を隠すことがある。知らないふりをすることがある。

 それを欺瞞や偽善と呼ぼうが、逆にいたわりや優しさと呼ぼうが、隠された心は人を傷つけることも多いけれど、自分を救い相手を救うことだって多いのである。

 だから、どんなことにも、たとえそれを正義だとか真実だとかはたまた偽りや邪悪と呼ぼうが、常に表と裏の二面があると人は考え、そして色々な場面で人はそのことを使い分けてきたのかも知れない。

 ここまで書いて、「お前は何を言いたいんだ」と自問する声がある。ただ、例えばことわざなどにも、「善は急げ」と「急がば回れ」と対立するフレーズがあるように、言葉は確かに思想を表していはいるけれど、同時に一歩引いて考えてみる必要があるのではないか。もっともらしい言葉であるならあるほど、飛びつかないでゆっくり味わってみる必要があるのではないか。

 ただ人はどうしても安易なほうに流れやすいから、容姿や持ち物などに力点が置かれがちになる。しかし、顔やスタイルが大切なのはそれが目的なのではなく、「見えない心」を理解してもらう手段として有用だと言うことなのだ。
 理解されるまでに時間のかかる心ではあっても、やっぱり理解してもらってはじめて価値を生じるのであり、そのための努力が必要なのである。

 磨かなくても宝石は宝石かもしれないけれど、泥にまみれた宝石はやはりそれだけの価値しかないのではないか。そうした意味での「顔」の大切さ、そしてその上で「やっぱり顔じゃないよ、こころだよ」を教えていくのも、年齢を重ねてきた者の仕事の一つなのではないのだろうか・・・・。
 こんな自分勝手な妄想にしばしひたる、ひとり事務所のうとうとしている昼下がりである。エンヤの歌声が静かに流れてくる。物音一つしない札幌の琴似の路地裏の、小さな夏の入り口である。

                            2004.06.04    佐々木利夫


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