どんな基準で決めたのか分からないけれど、この物語は猿かに合戦、舌切り雀、花咲か爺、桃太郎と並んで日本の五大昔話に入っているそうだ。

 昔話の例に漏れず、この話も時代によってどんどん変わっていっているので、物語の全体像が人によって違っているかも知れない。それで、とりあえず基本的な筋書きをたどってみることにしよう。

 爺さんは畑でいたずら狸を捕まえて帰り、婆さんに狸汁を作っておけと言って出かける。狸は麦つきを始めた婆さんに手伝うと言って騙して縄を解かせ、杵(きね)で婆さんを殺し、更に婆汁を作って爺さんに食わせる。狸は爺さんが食ったことを確かめた上で、「はばあくったじじい、流しの下の骨を見ろ」とののしりつつ逃げる。爺さんの悲しみを知った裏山のウサギは狸を捜し出し、背負わせたカヤに火をつけて大火傷をさせ、その背中へ治療と称して味噌と唐辛子を塗り込み、更に泥の船に乗せて二度としないから助けてくれと懇願する狸を見殺しにして溺れさせてしまう。

 このとおり、かちかち山の物語は非常に残酷である。「悪いことをすれば必ずその報いがある」というそのこと自体はよく分かる。
 しかしそうした教訓を伝えるにしても、この話は残酷すぎるような気がしてならない。
 もっとも最近は、子供の情操教育かどうか知らないが、婆さんは殴られただけで死ななかったり、狸も反省して「良い狸」になるというような筋書きに作り変えている本もあるようだが、それでは昔話としての味わいを失くしてしまうことになるだろう。

 ここでのテーマは殺人と人肉食である。およそ童話の世界からは遠くかけ離れた、すざまじく重いテーマである。もっとも、それなくしては後半のウサギのあの執拗な復讐劇を納得させることはできないだろうという考えも分からなくはない。
 ただ、それにしてもこの物語は残酷に過ぎる。「婆汁」という人肉食の発想は、数ある童話のなかでも非常に特異なものだと言っていいだろう。その特異性のせいか、これに触発されたと思われる作家の作品をいくつか読んだ記憶がある。

 太宰治は「お伽草子(カチカチ山)」の中で、「娘ウサギに恋する中年のタヌキ」として登場人物を配し、処女の持つ純粋であるがゆえの残酷さを物語の背景に置いている。「惚れたが悪いか!」、狸の開き直りとも、無常のあがきともとれるこの断末魔の叫びは、「女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでゐる」という作者の言葉とともに、なぜか読む人の心にストンと落ちてくる。

 倉橋由美子の「大人のための残酷童話(異説かちかち山)」は、非力な狸の非力ゆえの復讐手段としてこの報復劇をとらえている。狸はやはり狸汁にされてしまったが、その復讐のために弟狸が兎に化けて「じじいがばば汁食った、狸が婆さんに化けた」と爺さんの耳にささやくのである。「目の前の婆さんはもしかしたら狸ではないのか?」、疑心が暗鬼を生むのは世の習いである。疑いは真実を覆い隠し、生じてしまった疑惑は自力で勝手に増殖していく。
 かくして爺さんからの要請という大儀を得た兎に化けた弟狸は、狸が化けていると信じた爺さんの思いそのままに、本物の婆さんにやけどを負わせ、唐辛子を塗りこみ、泥舟を使って追い詰めて殺し、果ては爺さんに本物の婆汁を食わせ、真実を知った爺さんを嘆きの果ての死にまで追いやるのである。

  こうした犯罪と報復の物語は、現在の私たちのように、例えばお巡りさんがいつも近くに居て、110番ですぐ駆けつけてくれるというような時代背景とは別個のものとして考えねばならないだろう。行政や司法が「お上」という、庶民とは異質な枠組みの中に存在しており、そんな大げさなことはしないで、部落内のことは部落の中の身内の問題として解決するのだという、そうした時代の中における地域集団の自律の問題として捉える必要があるのかも知れない。

 だから今でこそ全面的に禁止されている自力救済(司法手続きによらず、自らの力で権利を確保すること)というものも、当時の社会においては刑事、民事を問わず秩序維持の必然だったとも言えるのであり、「悪いことをすれば必ずその報いがある」は、確かな村の掟として、子供たちに伝えてゆかなければならない大切な仕組みだったのかも知れない。

 それにしても、どうしても感じてしまう違和感の一つは、当事者でない兎の執拗な復讐への執念である。爺さんが直接婆さんの仇を討つというのなら、多少残酷が過ぎても理解できないことはない。長年連れ添ってきた夫婦である。そのつれあいを、殺されただけならまだしもばば汁にして亭主に食わされたのである。そんな残虐非道な仕草は、とてもとても、単に相手を殺すだけで許される話ではない。まさに「殺すだけでは飽き足らない思い」だろう。

 しかし兎はどうだ。兎がどの程度爺さんと親しかったかは知らないけれど、結局は他人である。爺さんの怒りや苦しみに共感や同情はできても、それを共有することはできないだろう。爺さんにとってはつれあいの死であるけれど、兎にとってはつまるところ他人の死である。爺さんに頼まれてかたき討ちを承諾した兎の親切心は分からないでもない。でも兎にどうしてあそこまで冷酷に狸をいたぶることができるのかについては、なかなか納得できる理由を見つけることができない。

 かちかち山は、兎の出てくる場面を境に二つに分かれているとする説がある。つまり爺さんと狸の物語りという前半と、兎と狸の物語りという後半とは、もともと別の物語りだったという説である。
 言われてみると、後半に爺さんが全く出てこないのは明らかに不自然であり、二つの別々の物語が合わさったというのは本当かも知れない。そうだとすれば、兎が狸に直接報復しなければならないような動機となる重要な事件がどこかで消失してしまったのだとも考えられる。

 ともあれ昔話には、時に我々が忘れかけていた人間としての生臭さをふと思い出させてくれる仕掛けが潜んでいる。もしかするとこの兎の残酷さは、太宰治の言う「女の持つ残酷さ」以上に、人間そのものに潜んでいる残酷さそのものなのかも知れない。
 こうした残酷さは決して忘れかけていたのではなく、忘れたふりをしていただけであり、人間とはそうしたとてつもない残酷さを身のうちに秘めたまま、平和とか正義とか善意とかの仮面をかぶって暮らしているだけの怪物なのかも知れない。わたしも、そして・・・あなたも・・・・・・。


                       2004.08.22    佐々木利夫


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かちかち山