先日のラジオで、母親の感激の投稿を紹介していた。内容は、10歳のときにぐれて迷惑のかけどおしだった次男が、仕事に就いて最近両親を食事に誘ってくれたことへの感激である。「誰からの誘いよりも嬉しい」と、母親は手放しの喜びようである。
 そういえば、これに似たストーリーは、テレビドラマなどでもけっこう見かけることがある。例えば設定は、一方がグウタラで暴力を振るい、時には子供を捨てたどうしようもない父親、または母親である。そしてもう一方は、そうした親の不存在がトラウマになり、社会的にはほどほどの成功はしたもののやがて非行や犯罪に走った若者である。

 ただ、その子にはたった一つだけ、幼いころの親との思い出がある。夕焼けの土手の散歩、誕生日にもらった小さな熊のぬいぐるみ、公園でのキャッチボール、一緒に遊んだ海岸で拾った貝殻などなど・・・・・・。そしてこの僅か一度の思い出が、事件解決の更には断絶していた親子和解のキーワードとなる、そんなドラマである。子供に嫌われていると確信している親の、その老いた背中へ娘は「おかあさん」と叫ぶのである。癌病棟で死に瀕している父親の手を息子はしっかりと握るのである。

 オイ、オイ、ちょっと待ってくれ。そんな一回の食事やキャッチボールで和解してもらっては、普通の子供や普通の親は困るのである。そんなことが、「誰からの誘い」よりも嬉しがられ、夕焼けの散歩が世界で一番愛してくれた親の姿なんだと、勝手に感激してもらっては困るのである。

 グレることもなく、そこそこ毎日勉強して、当たり前に高校へ入って、就職し、結婚した当たり前で普通の子供が、世の中にはいっぱいいるのである。
 時には仕事に追われて約束を違えることがあったかも知れないし、時に小言を言い、裸で風呂から上がり、いびきをかいてゴロ寝し、それほど出世もしなかったなど、必ずしも格好良くなかったかも知れないが、それでも毎日優しく接し、慣れない手つきで写真をたくさん撮り、「うざい」と敬遠されながらも子供の成長を密かに楽しみにし、思春期にどう対応していいか戸惑っておろおろしている親が、この世にはごろごろ存在しているのである。

 そんな普通の子供や普通の親よりも、ぐれて立ち直った子供や、一回の思い出だけのどうしょうもない親のほうが光り輝くなんて、絶対に理不尽である。


 社会はドラマを求めているのかも知れないが、社会を作っているのは天才やスターやアイドルなのではない。向こう三軒両隣、当たり前の目立たない普通の人間なのである。当たり前のことを当たり前と認識しつつ感謝する心を、人は忘れてはいけないし、育てていかなければならないのである。
 分かりやすく言えば、「普通の人」が一番偉いのである・・・・・・と、普通の男は普通の頭で考えているのである。

                            2004.04.05    佐々木利夫


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可哀想な「普通の親と子」