私の年代の電話に対する基本的なイメージの第一はステータスの一種であり、穴の開いたリングを回すダイヤル式の黒い固定電話である。電話債券も購入しなければならなかったから価格は高く、回線数もふんだんにはなかったから庶民には程遠い文明の最先端の利器であり、子供の頃の一般家庭にとってはそれこそ高嶺の花であった。
 それが今や街中が電話で溢れかえっている。老若男女ことごとくが片手を耳に当てたり、せわしく指を動かしてのメール送信に余念がない、
 ひとりの事務所で、身の丈に合った仕事をしているこの身にとって、携帯電話など不要な存在ではあるが、それでもこれだけ溢れてくると、好むと好まざるとにかかわらず色々な出会いや関わりが発生してくるもので、その中からいくつかを拾い出してみることにしよう。

@ ドキン

 自宅から事務所まで歩いて片道約50分。もう4〜5年も続けていると、歩くことが何の苦にもならなくなる。ある夕方のことである。薄暮が橙色から次第に灰色に変わっていく秋の空気に身を浸していると、突然すぐ後ろから若い女性が華やいだ声をかけてくる。「お久しぶりです、お元気ですか・・・・・」。

 すでに人生の黄昏を迎えたこの身にとって、この不意打ちは一瞬のパニックを引き起こす。そして、そうした混乱のコンマ数秒を他人に与えたことなど少しも気づかずに、自転車の彼女は耳に携帯を押し当てたまま、軽快に私を追い越していく。

 残った余韻はなんともほろ苦いものであり、そんな声に心乱されたこの身の味気なさが澱のように残る。しかしそれでも、このすれ違いに一瞬にしろときめきに似た気持ちを味わったことは事実だし、同時にそうしたときめきを感じたことへの気恥ずかしさも事実である。それは私一人だけの密やかな感情であり、薄暮の中に誰にも気づかれることはない。

 ただ、そうしたときめきにも似た感情を受け取る余地が、まだ自分の気持ちの中に少しにしろ残っていたのだろうか・・・・と、過ぎ去った若さを懐かしむ心地も、実はそれほど悪くはない。

A 余計なお世話

 税理士事務所を開いたとき、私も人並み(?)に携帯を持ったものだ。固定電話でさえステータスと感ずる年代のこの身にとって、まだカメラ機能はついていなかったものの、胸ポケットの携帯電話はまさしくステータスシンボルそのものみたいに感じたものだった。

 持ってみて感じたことは、便利さもさることながら受信したときの相手の第一声の「決まり文句」に驚かされたことであった。固定電話は決まった場所にあるのだから、電話に出た相手がその場所にいることは互いの了解事項である。
 しかし携帯電話は移動電話だから、相手がどこにいるか分からない。だから電話するほうは、今の状況が受信する側にとって通話に都合がいいのか悪いのかが分からないことにもなる。もちろん、固定電話だって同じ状況にあることは多いと思うけれど、携帯電話のほうが都合の悪い状況がずっと多いと思う。

 だからなのだろうか、だれからの第一声も、言い方はそれぞれ違うけれど判で押したように「今、何処にいる」だった。聞くほうは相手が何処にいるのかを知りたいのではなく、むしろ「今、電話で話してもいい状況か」という意味で聞くのだろう。

 でもそうだと知りつつも、受けたほうはそう単純にはいかないのである。第一、「今、何処?」と聞かれて、「都合悪くないから話してもいいよ」では回答になっていないし、会話にならないだろうと思ってしまうのである。
 今いる場所を聞かれているからと言って、「歩いている最中だよ」、「○○と飲んでるよ」、「孫と飯食ってるよ」、「女房とテレビ見ているよ」なんて、真っ正直に答えるのもやっぱり変だし、だからと言ってわざわざ嘘ついてまで返事を加工するのはなおさら変である。

 正直も変、嘘も変、電話はいつも不意打ちで呼び出されるから、咄嗟に発生するそうした様々な葛藤の中で、ついつい私は思ってしまうのである。「どこにいようと、私の勝手じゃないか。余計なお世話だよ・・・・・・」。
 行方不明に憧れているわけではないけれど、たまさかの行方不明もそんなに悪いものではないと、つい思ってしまう。もちろん、だからと言って「余計なお世話」なんて言葉を発することなど決してないのだけれど・・・・。

 私が携帯電話を手放したのは、なくてもそれほど不自由ではないこと、そしてやっぱりどこかで電話に追跡されているように感じたことなどが大きな原因だと思うけれど、この「余計なお世話だよ」の気持ちにも、少し影響されているように感じている。

B 勘ぐり

 携帯電話といえども電話だから、受信する側にとっては、場所も時間も発信者の気ままに任せるしかない。そうした時、メールの場合が多いけれど、そのメールを今読むか後から読むかは私の自由であり、電話と違ってその辺りのメールの自由度は極めて高い。

 でもマナーモードにしろ着信音にしろ、メールが来た事実は分かるから、気づいた以上は発信者が誰かのチェックくらいはとりあえずするだろう。
 その時に、後から読むという選択をするのは、その場に自分と関係のある他人がいる場合が多い。そうした時、そのメールの受信者でもないその他人に向かって、どうして私が「迷惑メールか・・・」とか、「いつものメルマガか・・・」などと、聞こえるともつかず、聞こえないともつかない言い訳を呟いてしまうのだろうか。

 実はメールの着信が分かったときに、発信者の確認をしないまま無視する(後から読むことを決断する)というのは実は非常にエネルギーを必要とする。特に着信の事実が分かるであろう近くに、肉親にしろ、知人にしろ、第三者がいる時はなおさらである。その第三者からの「私は構わないから、早く電話に出なさい」みたいな無言の圧力を、自分自身で勝手に作り上げてしまうからである。

 もちろん、「ちょっと・・・」と断って席を外してメールを確認し、「ごめん、ごめん」とでも言って席に戻れば、こんな変な気遣いはしなくて済むのであるが、そもそもこうした気遣いをしなければならないと思い込むこと自体が、携帯の持っている特有の秘密めいた変な現象である。

C ホラー

 これは私に起きたことではない。とあるエッセイで読んだ話である。
 ユーゴでは、基本的には今も遺体は棺に収め、墓地に埋めるそうである。上から土をかぶせ終わったとき、突然、土の中から携帯電話が鳴り出したと言うのである。参列者は笑いをこらえるのに必死だったと、筆者は書いている。

 日常、本を読んでいて声を出して笑うなどということは、決してというくらいないのであるが、このくだりには思わず笑い声をあげてしまった。
 そして同時に、これは笑い話ではあるけれど、例えば真夜中の地中から響く携帯の着信音なんてのを想像すると、けっこうホラーそのものだななどと感じてしまった。

 日本は火葬だし、副葬品には色々制限が多いからそんなことは起き得ないと思うけれど、携帯は今や現代人の必需品のようになっているのだから、場合によってはお気に入りのストラップともども、棺の中に入れられることだって十分に考えられる。

 通夜に聞こえてくる着メロの音。誰のだ!、どこで鳴ってるんだ!・・・・・、いつまでも鳴り止まない着信音に、ざわざわと騒ぎ出す人々の動きが目に見えるようである。
 そんな場面のために、もう一度、私も携帯を持ってみようかな・・・・・・。着メロにはどんな曲がいいだろうか、棺を開けて確かめる人なんてきっといないだろうから、誰からかかってきてるのか・・・・・・、知る人は・・・・いない・・・・・・・・よね。

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 携帯電話はいつしか「ケイタイ」とだけ呼ばれる時代になった。それは形の上では単なる「携帯電話」の省略形であることを意味しているのだろうけれど、どこか電話機から進化したこの物体の本質を表しているような気がしている。
 もはや携帯電話は電話する機械ではなくなった。電話にも使うことのできる「なんでもコンピューター」、「どこでもコンピューター」、「誰でもコンピューター」もどきの不可思議な装置になってしまった。
 「ケイタイ」のこれからはどうなっていくのだろうか。ふと、少し末恐ろしい感じを抱きつつ、街中でも電車の中でもいたるところに溢れかえっている携帯人間の姿に、「一体世の中どうなっとるんだ」と、携帯を持たない意地っ張りな老税理士はひとり呟くのである。

                       2004.10.06    佐々木利夫


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