飢えのエネルギー

 「飢え」と「腹が減った」とはまったく違うものだと、前に書いたことがある。それは戦争や貧乏などに伴う極限としての飢餓を意識したものであったし、今でも世界中で飢餓に瀕している人々が信じられないほど多数存在していることも承知している。

 ただ現実の私達の生活を眺めてみると、飢餓とは程遠い、むしろ無縁な状態にあることが、否応なく分からせられる。
 コンビニ、ファミレス、レストラン、ホテルのバイキング、スーパー、デパ地下、ラーメン横丁、回転寿し…、現在は世の中一体どうなっているんだろうと思えるくらいの食い物天国である。

 そうした中で、実は我々の生活というか、生き方についても、飢えがなくなってしまっているとの感が深い。生きると言うことは一種の戦いであり、成功体験を望むあてどない旅であると、我々は歴史の中から学んできたはずである。
 成長するということは、小さな満足が続くという状態であり、そのことは逆に言うと、常に飢えが背景に存在していた、常なる飢餓が満足や成功へのエネルギーになっていたということなのではないか。
 例えば飢えによる「ひもじさ」は、食物の調達(それが生産や購入のみならず盗みによるものであるにしろ)への強力なエネルギーになることは、考えるまでもない自明の事実である。

 萩原朔太郎の作品に「死なない蛸」(「宿命」所収)という詩がある。作者自らが散文詩と位置付けている作品だから、引用する側が勝手にその内容を要約してしまうことは、詩人に対する冒涜になるかも知れないが、すばらしい作品でありぜひ原文に当たってほしいと懇願しつつ、あえて要約したい。

 水族館の水槽の片隅に、もう久しく忘れられ死んだと思われていた蛸がいた。蛸は幾日も続くおそろしい飢餓の中で、自分の足をもいで食う。一本もう一本、全部を食い尽くし、胴を裏返して内蔵を食い、そしてついに身体全体を食い尽くしてしまう。完全に。そして蛸はすっかり消滅してしまう。「けれども蛸は死ななかった。彼が消えてしまった後ですらも、尚ほ且つ永遠にそこに生きていた。古ぼけた、空っぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に−おそらくは幾世紀の間を通じて−或る物すごい欠乏と不満を持った、人の目に見えない動物が生きていた。」

 そうなのである。飢餓とはこんなにもすざまじいエネルギーを持っているのである。
 そうしたエネルギーが今の日本にはなくなってしまった。安定と平和は貧困をなくしてしまい、貧困の喪失は飢えの喪失でもあるから、食う心配のなくなった国民は、向こう三軒両隣、同じ顔の人間になることを望み始める。危険や侵害は自分で考えるのではなく、行政や社会、いやいや企業でも学校でも町内会でもどこでも良い、自分以外の存在に考えてもらうことにしてしまったのである。

 かくして飢餓を忘れた人々は、食うことへの心配をなくしたことで、人生に対する飢餓さえも喪失してしまった。努力が報われるとは限らないし、むしろ報われないことのほうが多いかも知れないけれど、飢餓に追いかけられている時のような切羽詰った努力を、人はすっかり忘れてしまっているのである。

 飢えはどんな時も、生きぬくためのエネルギーとなった。それを歴史的に証明せよと言われてもきちんとは説明できないし、そもそも日本人としての歴史がいつから始まったのかさえ理解してはいないのだけれど、歴史が始まって以来ついこの前の戦後の混乱期まで、人は常に飢えていたのではないだろうか。日本中の人々がこぞって飢えなど経験していないこんな時代というのは、今が始めてであり、これまでには無かったと言ってもいいのではないだろうか。

 衣食が足りてこそ礼節を知るのかも知れないが、礼節つまり礼儀や節度というのは、成熟した社会に近づいたという証左であり、成熟とは成長曲線で言えばもうほとんど伸びのない、停滞した状態を指すのではなかろうか。

 飢えは基本的には食い物であるが、食い物に満足してしまった現代は、それに派生する生きるための飢えも同時に失ってしまった。そしてそれに満足しているのかといえば、平和の真っ只中にいるにもかかわらず人は常に不満であり、その解消に自ら努力するのかといえばそうではなく、他者を責めることに汲々としている。

 「成功者の顔からは、飢えの表情が消えてしまう」とはよく聞く話だが、成功してもなお飢え続けていくというのは難しいことなのかも知れない。

 しかし、日本中から飢えの表情が消えてしまったら、日本は一体どこへ行ってしまうのだろうか。そしてそれが我々の始めて経験する飢えからの解放であるとするならば、人は飢えからの解放が続くことで幸せになれるのだろうか、再び飢えに直面したとき、かつて先人が持っていたエネルギーを復活させることができるのだろうか、答えのない迷路に踏み込もうとしている。

               2003.10.8    佐々木利夫