吉良上野介は偽者だった


 吉良上野介が本所の屋敷で四十七士に討たれてこその忠臣蔵である。物語の起承転結の大切な「結」が吉良の死である。浅野内匠頭の言後に絶する無念、大石内蔵助ら四十七士の1年10ヶ月にわたる壮絶な辛酸、そして彼らを取り囲む家族や友人、そのほか大勢の人々の思いが、あの十二月十五日未明の吉良上野介の死に凝縮して行くのである。

 いやいやそれだけではない。忠臣蔵という壮大なドラマが現在まで生き残っていた背景には、その成立を支持してきた多くの人々の心に、暁の雪に散る吉良の血の色はどうしても存在しなくてはならないのである。たとえそれが傍観者の立場であろうと、単なる物語の読者や歌舞伎の見物人の立場であろうとも、四十七士の苦難を共感してきた者にとって、吉良の死はなくてはならない必然なのである。

 にもかかわらず、吉良上野介はあの日討たれなかったという説が、多くの人々を説得するというのではないけれども、根強く語り継がれている。

 その背景はこうである。

 まず、討ち入った者の誰もが、大石内蔵助を含めて、上野介の顔を知らないということである。赤穂浪士のうちには江戸詰の者も多いし、結局は全員が江戸へ集結することになるのであるが、吉良上野介のような特別な階級に属している者は、一般の人間に顔を見せるという機会は皆無に近く、組織や趣味などを通じて接触する以外に直接その顔を知ることはできないのである。

 当時、主家の親類や親しい藩の主人の駕籠の列に出会った時、土下座の挨拶をすると、相手は駕籠の戸を開けて答礼する習慣があった。神崎与五郎は吉良家とゆかりの松平肥後守の家中の者と偽って挨拶し、上野介の顔を確認しようとしている。ただ、道端で跪いての挨拶であり、相手の顔を見据えるという態度をとることができないうえ、駕籠の小窓越しに相手の顔を見るだけであって、結局目的を達することはできなかった。

 また、討入り決行日を決める要因になったエピソードの一つに、大高源五が茶人山田宗偏に師事して吉良の同行を探っていた話がある。ただこれは、宗偏自身が上野介の茶会に参加しているというだけであって、大高源五がその茶会に出たことはないから、大高自身も吉良の顔を知ることはできなかったのである。

 こうした事実の裏付けとして、討入り当日の死体の確認作業がある。吉良と思われる者を討ち取ったのは事実であるけれど、それを確認できる者が前述した神崎与五郎も含めて一行の中に一人も居なかったのである。
 ただ、その死体が白無垢を着ていて、守り袋、鼻紙袋など通常の人では持っていない物を所持していたことや、裸にしたところ、額の傷は不確かだったが背中に僅かの傷跡が残っており、これらから一応吉良ではないかと想定されたに過ぎないのである。
 もちろんこれでは心もとないと考えた一行は、吉良の使用人である門番三人に討ち取った首を見せてその確認を求め、「ご隠居様です」との証言得たことから、その死体を吉良上野介と確定したのであった。

 なお、物語の多くが、炭小屋から白装束の男を生きたまま庭先へ引出し、大石内蔵助らが直接本人に上野介かどうかを確かめるという筋書きになっており、それに添う記録もある(江赤見聞記、浅野大学家記)。

 しかし、資料によれば、物置小屋でひそやかな人の声かしたので、戸を蹴破ると三人の武士が飛び出してきたのでこれを討ち、更に中から物音がするので間十郎が槍で突いた。手応えがあったので武林唯七が刀で切り付け、間もなく男は息絶えた。それが吉良の死体であつたというのが事実とされている。

 こうしてみると、門番の証言は直接証拠であるが、残るは状況証拠に過ぎず、しかも門番の証言についてもそれが真実かどうかの検証はされていない。

 ところで、吉良偽者説は要するに討ち取られたのは替え玉だったということになるのであるが、その背景はこうである。
 本物説と違って偽者説には直接証拠がなく、結局は状況証拠の積み重ねという以外にないのであるが、吉良はかねてから討入りを予想していたから、事前に身を隠すことは十分可能であったはずである、という考えが背景にある。

 まず、吉良は討入りを予想して厳重に防備を固めていたから、逆に考えるなら必死の浪士を完全に防御することは難しいということも分かっていたはずである。
 更に、討入り当日は浅野内匠頭の月命日であり、そのような日に茶会を開いて自分の在宅を知られるようにしたのはいかにも不自然かつ無謀であり、替え玉を用意した上での誘い水ではなかったのか。
 そして討入り当日、吉良方の侍たちは十六人も死亡し、負傷者も二十数人と多かったのに、浪士の方は負傷者四人だけである。この直接的な原因は寝こみを襲われたことにあるけれども、逆にいうと主人が居ないことで吉良邸の警戒が手薄だったことを示しているのではないか。

 これには、吉良邸の隣は土屋主税と本多孫太郎の屋敷であり、本多は吉良邸、土屋邸を含む三町四方の取締役と火消役を兼ねていたから、吉良邸には上野介が引っ越してくる以前から抜け道があって、本多邸の火の見櫓の下へ通じていたとの説もあり、これが吉良逃亡説を補強している。

 かくて、吉良上野介は赤穂浪士の討入りを逃れて一命を取り留め、悠悠自適の生活を送ったことになる。

 しかし、結果がどちらであるにしても、結局吉良上野介は死んだものとして世の中は動いていったし、吉良自身もそれを否定するような言動を起こすことはなかった。仮に生きていたとしても、その生活は身分を隠しての隠遁生活にならざるを得ないし、そうだとすれば、本人にとってみれば死ぬか生きるかは大きな違いではあるけれども、社会的な死という意味では、生き残ったことも討入りで殺されたこともそれほどの違いはなかつたことになる。

 つまり、どちらにしても、大石内蔵助らはその目的を十分に果たしたということになるのである。吉良上野介は結局、社会的に抹殺され、仮に生きていたとしても、生きていることを自ら明かにすることは事実上許されない状況に置かれてしまったのである。

 吉良上野介の人となりについては、改めて書いてみたいが、地元(三州吉良、現在の愛知県吉良町)では評判の名君であり、毛並みも優秀である。そうした人物が、どこかで食い違った歯車のせいで、不本意な悪名を後世に残すような状況に置かれてしまった(と私は考えている)。
 歴史とはかくも残酷なものだと言えるのかも知れない。

                 2003.10.18    佐々木利夫