この物語の登場人物はともに頬にこぶを持っている「気のいいおじいさん」と「心の狭いおじいさん」の二人、そして鬼である。話はあまりにも有名だし、筋書きもほとんど変化していないのであえて紹介することはしないが、私はこのこぶを二つつけられたじいさんが可哀想で可哀想で仕方がないのである。こぶをつけられたのは理不尽だとさえ思っているのである。

 「目の上のたんこぶ」ということわざもあるとおり、こぶは邪魔な存在として扱われている。現に物語でも、気のいいおじいさんも普段は気にしない振りをしているけれど、鬼にそのこぶを取られてしまったときの喜びようは大変なものであり、つるつるになった頬を撫でながらついついその気持ちよさを隣のおじいさんに話してしまうほどである。

 ところで鬼はそのこぶを、いわば明日も踊りを見せてくれることに対する「人質」、つまり担保として確保したつもりだった。しかし、実はその効果は全くなかったのであり、気のいいおじいさんはそうした鬼の誤解をチャンスとして利用するとともに、決してそのこぶを返して欲しいなどとは要求しないことにした。つまり、明日は決して鬼に踊りを見せに行くことなどしないと心密かに決めたのである。

 まあ、このへんはお互いの理解に食い違いがあったということであり、両者の誤解が気のいいおじいさんに有利に働いたということであろう。しかもおじいさんも誤解を解くような行動に出ることなく、逆にその誤解を利用したということである。
 このこぶを取られたおじいさんの意識と行動には、多少の身勝手さを感じないこともないけれど、それはそれとしてこの程度のことは世の中よくある話だと理解しておくことにしよう。

 さてここでもう一人、心の狭いおじいさんの登場である。彼は世間一般には「心が狭い」と思われているが、それは世間の人々に対してであって少なくとも鬼に対してのものではない。つまり、少なくとも物語の最初の段階では鬼から直接報復を受けるような立場にはないということである。

 それではどうしてこぶを二つもつけられる破目になったのか。ひとえにそれは、心の狭いおじいさんの踊りが下手だったからである。
 いやいや、もう一つ理由があるかも知れない。それは「人まね」である。心の狭いおじいさんは、気のいいおじいさんの真似をして同じように鬼にこぶを取ってもらおうなどと下司な考えを起こしたからである。
 動機の不純さを認めてもいい。気のいいおじいさんの善意の得意話にそそのかされたと言えばそれまでである。ただ、それでも踊りさえうまければこんなことにはならなかったはずである。だから第一の原因はやはり踊り下手にあったと言っていいであろう。

 つまり、心の狭いおじいさんが、こぶを二つもつけざるを得なくなった原因は、たった一つ、「踊り下手」という事実であり、決して「心が狭いこと」ではなかったということである。

 われわれはとかく物事を単純化して考えたがるものである。それはそのほうが理解しやすいと言うことなのだろうが、そうした単純化は時に先入観で判断するというとてつもない過ちを犯すことがある。
 この物語では、「気のいい、心の狭い」という対立した登場人物で話が進んでいくし、このほかにも「正直、意地悪」、「優しい、傲慢」など、多くの童話はこうしたいかにも分かりやすい対立の極に登場人物を置くことで、説明不要の事実を作り上げてしまうことが多い。

 話を戻そう。考えてみればすぐ分かることであるが、「気のいいこと」と「踊りが上手いこと」とは全く関係がない。同様に「心が狭いこと」と「踊りが下手なこと」もである。
 世の中には正直だけれど踊りが下手、意地悪だけれど仕事はできる、ある部分では優秀だけれどあとは馬鹿なんて手合いはざらに居ると思うのである。人間を善と悪の二つに分けてしまい、善の人は性格も踊りも歌も何でもかんでも善なのだなんてことは、土台無理なのである。全部そろった人を善と呼ぶのだとするならば、善人などこの世に存在しないのである。人は善悪、好悪、長短、様々な要素が絡み合って、不完全に出来上がっているのである。それを人間と呼ぶのである。

 そうだとすれば、このこぶとりじいさんの話は、最初に「踊りの上手いおじいさんと、下手なおじいさんがいました」で始めるのならともかく、「気のいいおじいさん」と「心の狭いおじいさん」という形で始めたのは間違いなのではないだろうか。

 こぶを二つつけたおじいさんは、これからも人々から同情されることはない。なぜか。それは「心が狭い」からである。踊りが下手だったからこうなったなどと思われることはなく、ひたすら「心が狭かった」からこんな仕打ちを招いたのだし、そのことは当然の報いなのだと思われ続けるのである。
 そうした思いは「前科者」などに対するいわれなき偏見と同じじゃないかと抗議したところで、村人の誰も分かってはくれないのである。

 しかしこの追加されたこぶはいかにも理不尽である。しかもこぶが二つになった責任は、本人よりも鬼のほうにある。なぜなら、第一にこぶを人質としての価値があると誤解したのは鬼である。自分の頬にこぶをつけた状態を考えた見るがいい。これしきの感情移入すらできない鬼が、どうして踊りの評価ができるのか。
 第二に、こぶを返すべき相手を間違ったことである。踊りが下手で、顔も違い、しかも現に取ったはずのこぶを顔につけているじいさんである。決して間違えるはずがないであろうにもかかわらず、鬼は重大な不注意で他人の顔にこぶをつけてしまったのである。

 鬼は専横の裁判官になった。鬼は踊りの下手なおじいさんに対し、言い訳も弁論も一切聞くことなく、「こぶを返す」と一方的に判決し、それは即座に実行された。控訴も上告も、更には再審さえも許されないたった一度きりの最終判決である。
 そしてこのおじいさんは、このこぶの増えた理由とは無関係な「心が狭い」という理由だけで、鬼の犯した過ちであるにもかかわらず、誰に同情されることもなくこれからの人生を二つのこぶをぶら下げたまま送らなければならなったのである。
 一方、気のいいおじいさんはこぶのなくなつた頬をそよ風になぶらせながら、「私にはまったく責任がありません」と、そんなこと考えることすらないままに、幸せ一杯の人生を続けていくのである。

 気のいいおじいさんが「気のいい」と思われているのは、隣に「心の狭い」おじいさんの存在があるからである。世の中「気のいい」人ばっかりだったら、「気のいい人」は存在しないのと同じになるのである。それなのに一方は全部が上手く行き、他方は不幸ばかりを背負う。それが世の中なのだとこの話は言いたいのだろうか。

 踊り下手がこぶ付けの刑になるという慣習があるのなら、それはそれでいいだろう。
 しかし、そうではなく鬼の誤解と村人の偏見で成り立っているかに見えるこの物語である。果たしてそこにどんな教訓を学び取ればいいのだろうかと、ふと自分の頬に手を当てながら、考え込んでしまうのである。

 で、ついついこんな風にも考えてしまうのである。
 教訓、「普段から行いの悪い奴は、たとえ誤解による理不尽な仕打ちであってもそれに耐えなければならないのだよ。なぜならそれはあなた自身の責任によるものなのだから。それが厭なら、日々善行を重ね決して他人に逆らうことなく『気のいい人』になるよう徹しなければならないのさ」・・・・・・・・・ん?。

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 ところでこの話の結論とは別なのだが、仮に気のいいおじいさんが鬼の期待に応えて翌日再び踊りを見せに行ったらどうなっていただろう。こぶは大切な人質だと鬼は理解しているのだから、きっとその踊りのご褒美にきちんと返してくれたのではないだろうか。とんでもないことである。しかし、行かなければ鬼の命令に背くことになる。どんな報復を受けるか分かったものではない。

 気のいいおじいさんの心に、密かに囁く声があったとしても何の不思議もない。隣のおじいさんにこぶのない顔を見せ、鬼の前で踊ったことを聞かせるだけでいいのである。
 あとは隣のおじいさんの自己責任である。行けと命じたわけでも、行って欲しいと頼んだわけでもない。しかも嘘をついたわけでも、誇張したわけでもない。結果がよければ私の情報の手柄だし、悪ければそれは隣のおじいさんのやり方のまずさである。

 さてさてもう一つ、翌日、踊りの下手なおじいさんが来た場合にはこんな解釈も可能である。踊り下手の代償として罰を与えなければならない。そんなときに、こぶを「人質」としての価値を持っているほど大切なものだと誤解している鬼である。そんな鬼が気のいいおじいさんのこぶをあっさりと返してしまうだろうか。むしろ逆に踊り下手なおじいさんの大切なもの、つまりこぶをもぎ取ってしまうことのほうが、罰としてふさわしいのではないだろうか。

 「こぶとりじいさん」は考え始めると、話がどんどんこんぐらがってきてしまう。
              ・・・・・くわばら、くらばら・・・・・・。


                       2004.09.12    佐々木利夫


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こぶとりじいさん