子供と付合う

 中学生が幼児を誘拐し駐車場の5階から突き落として殺したと言う事件があり、そのこと自体はとてもおぞましいことではあるけれど、マスコミや世の識者やいわゆる世論と言われている大衆の意見のほうも、かてて加えて被害者の親の意見というものも、加害の異常性を繰返し述べ、被害者意識ばかりが主張されていて、何かどこか変なような気がしてならない。

 でも、「いたずら」が目的だったのかどうかはっきりしないけれども、「誘拐」し始末に困って「突き落とした」ことにそんなに異常性があるのだろうか。もちろんこれらが正常だとは思わない。マスコミの論調の大半はこの「突き落とした」ことの残忍性を挙げているようだが、その背景には、「髭面のわいせつな中年男がにたにたと笑いながら、いたいけない子供を無人の駐車場の5階から投げ捨てる」というイメージとどこかで重複させているような気がしてならない。「悪いことをしたと思い、叱られるのがこわくて思わずその子を突き落とし逃げた」と考えれば、そんなことは日常どこにでも存在している。

 それが当たり前というのではない。ただ、ひき逃げ犯に見られるのと同じような意識であり、前後の見境なく突き落としたことに、そんなに異常性を見なければならないのだろうか。
 「…親、先生もマスコミの前に出し、打ち首にすればいい…」という現職大臣の意見も、様々な議論を呼んだし、「加害者の親からの一言の謝罪もない」という園児の父親の言葉にも裏打ちされている。

 もちろん、人が殺されたのだし、その被害者が幼稚園児と言う恐らく被害者としての責任が皆無であろうケースは、やはりやりきれない気持ちを呼び起こす。
 ただこうした未成年者、特に14歳未満の刑事未成年が加害者である事件では、特に「だれに責任があるのか」という議論になりがちである。それは加害者本人に責任を負わせられないということに原因があるのだろう。

 このことは逆にいうと、人はいつもだれか責任を負う者を求めているのだということになるのかも知れない。そうして被害者が抵抗できない年少者である分だけ、加害を「過大に」、そして「異常に」増幅することによって、被害の方も増幅させてしまうのである。そうすることによって話題性には富んでくるかも知れないが、事実をゆがめてしまう恐れのあることも同時に考えていかなければならないのではないかと思う。

 確かにこうした事件にはやりきれない部分があり、もう少し加害少年に普通の子供としての常識と言うか、ほんの些細な「当たり前」があったら起きなかっただろうに、と思ってしまう。そして、そうした「当たり前」は親や先生や回りの社会の気配りといった、加害少年と付合っている人々の、ごく普通な接し方が必要だったのではないかと思ってしまう。

 でも、考えてみると子供と付合うというのは、回りが思うほど容易なものではない。他人が、例えば教師であったとしても感傷や情緒や義務感、更には社会的な正義なぞという正当論で手に負えるものではないのではなかろうか。
 子供とまともに付合うということは、知識やしつけを教え込むというのではなく、無理であるとか無茶なことが許されるという背景、もっとはっきりいえば、子供にとっての確かな逃げ道がきちんとあって始めて可能なのではないだろうか。

 「親の責任」を言いたいのではない。確実な逃げ道のある付合いというのは、実は親子にしかない、若しくは親子にしか許されていないのではないかと、感ずるのである。
 こんなふうに言うと、放任とか無責任という言葉にまとめられてしまいそうに感じるけれど、そうではない。子供の逃げ道として親が受け止めるということは、子供から親が逃げ出すことではない。子供の方を向いてそこに居るということなのである。

 だから、子供と付合うということは、「覚悟」だけでいいのである。知識であるとか教養などというものは、あればあったほうがいいのかも知れないけれど、それは子供を受け止める心構えが出来た後の問題である。「覚悟」さえあれば、どんな親でも子供と付合う資格があるのである。それだけでたくましい子供が育っていくのである。