結婚式と葬式で住み分けている神主と坊主という職業は、なんとなくだけれど日本特有のあいまいさを表していて面白い。
 ただ宗教が、何百年も続き今も続く世界中のあらゆる(と言っていいほどの)戦争の原因になっている状況を見ると、八百万の神でも和洋でも、どんなものでも一緒くたにして矛盾を感じない日本人の宗教観は、争いを避けると言う意味では絶大な力を持っており、それなり独特の価値観を示していると言えるのかも知れない。
 もっとも世界中の争いに宗教がからんでいると言ったって、宗教そのものの対立によるものなのか、宗教に含まれる権力を巡る闘争が背景なのかは疑問であり、私などはあっさり権力闘争だと割り切った方が理解しやすいとも思っている。

 以前からではあるが、外国の文学や芸術(というほど造詣が深くもなんともないのであるが)に触れて気になるのは、日本との宗教観の違いである。
 日本人はどちらかというと、お寺でも神社でもどこでもいいから、ついでに寄った時にお賽銭をあげて家内安全、商売繁盛を祈るか、普段は全然当てにしていないくせに、困ったときにはすぐさま「神様、仏様」と祈るくらいが関の山という宗教は、信じているのかどうかという基本的な部分で疑問もある。

 しかし外国のドラマなどを見ていると、全部ではないかも知れないが、生活の中に宗教が染み付いており、そうした習慣の中で自然に生活しているという感じが強い。
 日本の宗教だってかつてはそうだったのではないだろうか。古典は当時のインテリなり特権階級の物語が多いから、それを日本人全体に広げるのはやや無理があるのかも知れないが、宗教は良いにつけ悪しきにつけ、もっと生活に密着していたような気がする。
 それが今は、こんなにも宗教観に乏しい世界になっている。

 なんでも他人のせいにするのが現代だと、そうした風潮にぶつぶつ文句ばかりを言っている私が、それを真似するのは心苦しいけれど、これはきっと坊主のせいではないかと思い始めている。坊主の説教が人々の心を揺り動かしていたのは、坊主が坊主以外の人々とは隔絶された清貧の世界に住んでいたからなのではないか。

 坊主は車に乗ってはいけないのだ。妻帯したりスーパーで買い物をしたり、スナックで酒を飲んでカラオケを歌ったりしてはいけないのである。
 大衆には守りきれない様々な戒律を坊主はきっちりと守るから、人々はそうした職業を敬い、さらには坊主の教えに嘘はないと信じるのである。

 これは別に、世俗の行為を法律的に禁止せよとか、人権を制限せよと主張しているのではない。ただ、坊主の説教に権威がなくなり尊敬を受けなくなった背景には、そうした坊主の庶民化というか、別世界から庶民世界に降りてきてしまったこと、そしてそれにもかかわらず徐々に自らを庶民の上位に位置づけようとしてしまったところに原因があるのではないかと感じているのである。そしてそのことが、宗教を信じない日本人を作り上げてしまったのではないかと思うのである。

 通夜の坊主の説教は、どうしてあんなにも有難くないのだろう。どうしてあんな程度のことを、車に乗って式場に来て、高い戒名料をとっていながら、気恥ずかしくもなく言えるのだろうか。

 「乞食坊主」という言葉がある。金もなく、寺も持てない放浪の坊主を揶揄(やゆ)して言った言葉だと思うけれど、そんなところに宗教の原点があるのではないか。
 河原乞食がいつの間にか芸人に変化し、やがてスターに変っていったことで庶民から離れてしまったように、坊主もまた人の心を捉えようとする努力から、自らの豊かな生活や、あがめられる立場へと軸足を移していき、共に考える立場、更には自らを敷石にしようとする立場から、大衆、民衆、哀れむべき人々を指導し導くという尊大への道筋をたどろうとしている。

 なんでもかんでも坊主のせいにするのは間違いだと思うけれど、だからと言って宗教改革だ、教育だ、道徳だなどとテーマを大きくし、坊主自身が我関せずで人任せにしてしまうのもどうかと思う。
 あらゆるものに神を見、仏を感じる日本人である。そんな貴重な風土を逃す手はない。若者からは少しずつ宗教観が消えつつあるけれど、まだまだ古老には残っている現代である。
 清貧などという言葉はすでに死語になってしまったのかも知れないけれど、せめて坊主自らが葬式の仕切り屋から抜け出そうと努力しないことには、そのうち宗教と言う言葉そのものが日本語として死語になってしまいそうである。


                       2004.03.05    佐々木利夫


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