殺人と言うのは人を殺すことだから、殺された人間が死ぬという結果に関して言えば、どんな殺人だって同じである。
 こんなこと、あんまり大きな声では言えないけれど、60年以上も人間やっていると、その間に、恐る恐る言うのだし、それを実行しようだなんてゆめゆめ思わなかったのではあるが、「人を殺したいと思ったことがなかったか」と問われれば、聞いてる相手の顔色少し伺いながらも、しばし返答に迷うことは事実だろう。

 もしかしたら、多くの人は「人を殺したい」などとは、決して思わないのかも知れないけれど、もう少し巾を広げてみるなら、多くの人が、「人を殺す」という言葉は物騒だけれど、もう少し柔らかく、「殺したいと思う気持ちを持った」ことは、生涯に一度や二度はあるのではないだろうか。
 それは、どこまで真剣か、ほんの気まぐれか、酔った頭の片隅が、架空の白昼夢か、はたまた冗談にまぎらせるひとり言か、そんな状況はとも角として、皆無の人と言うのは少ないのではないだろうか。
 そうした意味では、「殺人」も我々とは無縁ではなく、少なくとも想像できる範囲内にあると言うことができるだろう。

 でも最近の「現実の殺人」はどうだろうか。理解できないものが多すぎる。「殺人を理解できる」と言う表現は、論理そのものが破綻していると人は言うかも知れないし、それは当たり前のことだろう。「汝、殺すなかれ」、 「殺人はどんな場合でも悪である」は、正当な命題として人種を超えて承認されているからである。
 それでもあえて誤解されること、そして情緒的な区分だということを百も承知の上で、殺人には「理解できる殺人」と「理解できない殺人」の二種類があるような気がしている。

 このことは、「理解できる殺人」を承認すると言うのではない。殺人はどんな場合だって否定すべきだけれど、その上に立ってなおかつ理解できる殺人が存在すると言いたいのである。

 そして、最近の殺人はどうなっているのだろう。理解できない殺人ばかりのようにな気がしてならない。どんな場合でも人を殺すことは悪だと言うのは正しいと思う。それでもこの頃の殺人は私の理解の範囲を超えている。
 戦争とか革命とか、そんなことを言っているのではない。個人が個人を殺すことである。

 もちろんこうした見解は私の価値観なり人生観に根ざすものだから、理解できるにしろ、できないにしろ、その根拠はどこまでも主観的なものだし、本来「程度の問題」であるものを自分勝手な場所に線を引いて、ここから右は理解できるなどと独りよがりの怪気炎をはいているだけなのかも知れない。

 それはそうなんだけれど、例えば恨み、飢餓、裏切り、恐怖・・・・・・、なんでもいいい、安手のテレビドラマの刑事の台詞ではないけれど、「痴情、怨恨、物盗り」に代表されるような、そんな動機から離れた殺人が起きてくると、殺人そのものをどう理解していいのか分からなくなる。

 たぶんそれは、「動機の共感」の範囲を超えているかどうかということなのではないかと、最近思うようになってきている。何度も言ってるように、共感できる動機なら殺人を許してもいいと思っているわけではない。
 そうではなくて、例えば児童虐待による殺人や、ストーカー殺人、行きずりの無差別殺人、誰かを困らせることだけのための看護師による患者殺人などなど、そうした背景に人間としての基本的な感覚を失った、「狂気」の一人歩きが感じられ、そのことが怖いのである。

 もともと殺人に理性などというもっともらしい感覚を持ち込むこと自体が間違いなのかも知れない。殺人そのものが狂気であり、「殺すなかれ」が人類共通の命題になっていると言うこと自体が、狂気が昔から存在していたことを明示しているのかも知れない。そして現代は、そうした狂気の情報をこと細かく伝えるメディアの発達がそれに拍車をかけているというだけのことなのかも知れない。

 けれども「狂気」という亡霊の存在は、そうした理解できない殺人がいともあっさりと起きてしまう現実の前では、殺人を説明する十分なキーワードにはなってくれない。「狂気」というのは単に、「分からない」ということの言い換えに過ぎないのではないか。

 命の問題は、どんなに言葉を尽くしたところで、「自分の命」と「他人の命」の峻別から逃れることはできない。だから、他者の死にはどうしたって避けられない距離が存在し、その距離の分だけ実感から遠ざかっていく。また、他者の死に対する距離感の存在は、自分の命との距離という側面ばかりではなく、例えば「ナイフで赤ん坊を刺す」ことと、「核ミサイルの発射ボタンを押す」という、殺人の手段や方法などの場面にも表れてくる。そしてそうした距離のどこかに引かれた線が「理解できる殺人」と「理解できない殺人」の道標になっているのかも知れない。

 ただ、現代はそうした距離が人の心の中でどんどん遠くなっていっている。現代は他者の死を理解できない方向にどんどん広がっていく。いつも空から事理の弁別を眺め、そして誤りを糾してくれていたお天道様はいつしか姿を消してしまい、密かに暗闇から姿を現していた幽霊もまた、理不尽に殺された己の恨みを晴らすことを許されない時代になった。

 どうしたら他者の死を自己の死へと近づけることができるのだろうか。ことは、もう、手遅れになってしまっているかのように、「理解できない殺人」が感染を広げていっている。


                            2004.03.30    佐々木利夫


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理解できる殺人、できない殺人