ご存知、芥川龍之介の書いた「蜘蛛の糸」である。物語はすでに教科書にも紹介されてるなど広く知られているから、詳しくは触れない。今日の主人公カンダタの役はあなたにやってもらおう。

 物語はお釈迦様の気まぐれから始まる。極楽の池の淵をぶらぶら散歩していたお釈迦様は、地獄の底で苦しんでいるあなたを見つける。

 物語のカンダタは殺人、放火、盗みなどを繰り返す、自他共に認める悪党であるが、あなたは違う。もちろん、だからといってお釈迦様に肩を並べるほどの善人だとは自分でも思っていない。地獄に来てしまったことは意に沿わないと密かに思ってはいるけれど、だからと言って極楽に住む権利を主張できるかと問われれば、内心忸怩たるものがある。
 スピード違反や駐車違反などもそこそこ経験しているし、千円拾って猫ばばしたことだってある。仕事だって家庭だって一点の非もなくまじめだったかと言われれば、そこそこまじめという程度であり、どちらかと言えば後悔と自己嫌悪の多い人生だったと思っている。

 さて、お釈迦様は、あなたの生前のたった一度の「蜘蛛を踏み潰そうとしたのを思いとどまった」という行為を思い出す。そして極楽の蓮の花に巣をかけている蜘蛛の糸をあなたの前に垂らすのである。
 この程度の善行なら数多くやってきたよなんて抗議は止めたほうがいい。何と言ってもお釈迦様の気まぐれなのだから。

 あなたはその蜘蛛の糸を地獄の底で見つける。お釈迦様があなたを試そうとしていることなど気づくはずもないが、その糸をたぐっていけば少なくともこの地獄からは抜け出せるのではないかとあなたは考える。うまくゆけば極楽へ行くことだって夢ではない。あなたがそう思ったことをだれが責められようか。現にお釈迦様だって自分でそう感じたからこそ、こんな気まぐれを思いついたのだから。

 地獄から極楽への道が、どんな形にしろ存在しているのかどうか私は知らない。ただ、閻魔様に地獄行きを宣言されたからには、極楽との交流がそんなに安易にあるとは信じがたい。
 そうだとすれば、あなたにとってこの光る糸は、極楽へ行ける唯一の、そして恐らくは最後のチャンスであるかも知れないのである。
 知る限り地獄は苦しみの連続である。それは生前に犯した罪のあがないだと言ってしまえばそれまでのことだけれど、血の池、針の山、煉獄などなど、阿鼻叫喚に満ち、トートロギーになってしまうけれど、それこそまさに地獄の苦しみである。

 目の前の糸は、あなたに地獄からの脱出を囁いている。これを逃す手はない。あなたは糸を手繰って昇り始める。ゆっくり、ゆっくり、なんといっても蜘蛛の糸である。乱暴に引っ張れば切れてしまうだろうことなど、子どもにだって分かる道理である。あなたは慎重に、これまでにないほど慎重に、地獄から抜け出ることができるかもしれない唯一無二の機会を手のひらで確かめる。

 そしてあなたは途中で気づく。あなたのすぐ後から、地獄の亡者どもが、このか細い糸にすがりつきながら何人も何人もぞろぞろと昇ってくる姿を・・・・・・。

 さて、あなたならどうする。
 「さあみんな、この糸を伝って一緒に極楽へ行こう」。あなたがそう言うと思うなら、この話の続きを読む必要はない。でも私は、私自身もあなたも、恐らくそうは言わないのではないかと思うのである。
 カンダタは極悪非道の犯罪者だからそう叫んだのかも知れない。でもお釈迦様には比すべくもないが、小市民で小悪党の私だってきっと、「この糸は俺のものだ、お前たちは手を放せ」と叫ぶと思うのである。

 手にしているのは一本の蜘蛛の糸である。ロープや鉄索ではない。自分ひとりの体重だって支えきれるかどうか分からない、か細い希望である。カンダタはそう叫んで目の前で切れてしまった糸をスローモーションの映像のように眺め、再び地獄へと戻っていった。たぶんあなたも同じ道をたどるだろう。

 それが人間である。「私ならそう叫ばない」と自信を持って言えるなら、あなたは既にお釈迦様と同じ高みに居る。主人公失格である。そもそもあなたが地獄に居ること自体が誤りだからである。
 人は弱い。弱いからこそ強くなれと言うことはたやすいけれど、凡人で小悪党の我々に与えられた、たった一度のチャンスに、「人類みな兄弟」と叫べるような、そこまでの心の広さを求めることは無理である。
 もう一度同じチャンスがあったとしたら、そこで失敗しても三度目のチャンスが巡ってきたら・・・、違う選択をしたかも知れない。しかし、恐らくお釈迦様は二度とあなたに同じチャンスを与えることはないだろう。

 あなたの失敗の原因はなにか。それは、蜘蛛の糸がぶら下がってきたとき、そしてその糸が自分の体重を支えるに足る強度を持っていることに気づいたときに、それが偶然の仕業ではなく、誰かの意思、人知を超えた誰かが自分を試しているのだと言うことに気づくべきだったと言うことである。お釈迦様の意思に気づくチャンスは実はもう一度あった。後からぞろぞろとつながってくる亡者の行列を見て、それだけの亡者をこの糸が支えているという、常識ではありえない現実に気づいたときである。
 そのことに気づいたとき、あなたはお釈迦様に聞こえるように、天にも届けとばかりに大声で叫ぶべきだったのである。「さあ、みんなで一緒に極楽へ行こう」。
 そうしたら、あなたも、あなたに続く多くの亡者どもも、そのすべてが極楽へ行くための切符を手にすることができたのである。

 お釈迦様の気まぐれがあなたを試すことにあったことは自明である。だからと言って、そのテストに合格したあたなだけを助けるだけで、糸を信じ、期待に胸膨らませてあなたに続いて昇ってくるたくさんの亡者どもを、あなたのすぐ後ろでばっさりと糸を切って地獄へ戻すなどという非情なことを、お釈迦様はするはずがない。
 そうなると、定員がどうなっているか知らないけれど、極楽は超満員、そして地獄は空っぽになってしまうだろう。仮に地獄に落とされたとしても極楽に行くための糸が残されているかぎり安心である。それともお釈迦様はこっそりと、卑怯にも誰にも気づかれぬ内にその糸を引き上げてしまうのだろうか。

 こう考えてくると、この「蜘蛛の糸」のお話は、必ず途中でその糸が切れなければならないのである。しかも、お釈迦様の善意を傷つけないような結末にするためには、その糸の切れた責任の全てをあなたに押し付けなければならないのである。つまり、お釈迦様としてはあなたに「この糸は俺のものだ」と叫ばせなければならなかったのである。そうしなければお釈迦様は、「極楽と地獄に分けた世界」という宇宙のあり方そのものを、自らの手で危うく破壊してしまうところだったのである。
 そのことに気づいたお釈迦様は、自らの気まぐれの大きさに愕然としただろう。しかし、あなたはお釈迦様の心配をよそにもっとも理想的なシナリオを選んだ。お釈迦様は少し悲しい顔をしたけれど、内心ホッとして善人ばっかりが住む極楽の散歩を続けたのである。これで良かったのである。これ以外の結末など、あってはならなかったのである。

 そういうように理解するのでなければ、あなたがあまりにも可哀想である。なぜなら、あなたは後から続いてこようとしている地獄の亡者全員の希望を、お釈迦様が救いがたいエゴだと思い込んだ僅か一言で、無残にも切り捨ててしまったことになるからである。
 あなたが地獄に戻るのはいい。不本意かも知れないがそれはあなたの心の狭さが招いた責任だ。でもあなたの放った一言で再び地獄の苦しみを味わうことになってしまった多くの亡者の無念は、いったいどこへ向けていったらいいのだろうか。


                                    2004.07.19    佐々木利夫



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