ご存知、庭に植えた豆の枝が一晩のうちに雲を越えて天まで届き、その枝を伝って少年が天上界へ行くという話である。
ところで、主人公の男の子は病気の父を抱えた母との貧しい家庭の子である。そしてたった一頭残った農業用の牛さえも明日の食べ物のために売り渡すことになり、しかもその牛を僅か数粒の豆と交換してしまうという、どちらかと言えば常識はずれの子どもである。
この子は牛との交換で手に入れた豆を庭に蒔き、その枝が一夜にして天まで伸びたことを知ると、それをよじ登っていって、天上界に住む男の家から金貨の入った袋を盗むのである。そしてその盗んだ金貨でしばらく生活していくのであるが、それもいしつか底をついてしまう。
男の子はもう一度豆を蒔き、その盗みをした天上界の男の家に忍び込んで今度は宝箱を盗む。ところがその家の男に見つかって追いかけられる。必死で逃げる男の子、追いすがる男。もう少しでつかまりそうになるところを、男の子は豆の枝を降り、母と協力してその枝をなたで切り落としてその男を地上へ落とし、殺してしまう。
男の子の名はジャック、金貨や宝箱を盗まれたのは人を食う鬼、宝箱の中味は金の卵を産むニワトリと自動演奏するハープという設定である。
この物語は人に何を伝えようとしていのだろうか。この物語を教訓話として、いかにも正当化していると思われる唯一の根拠は、「天上界の男が人食い鬼だ」という設定だけではないかと私は考えている。しかも、その鬼にしたところが、たとえばその町の住人やジャックの友達を毎日のように食っているというような設定にはなっていない。
鬼は何をされてもいいのだろうか。仮にジャックの行為が友人や仲間が食われたことに対しての報復だとしてもいい。場合によってはその鬼が世界中から指名手配されている極悪非道の犯罪人だとしてもいい。そういう理由によるものならば、そういう鬼に対するものならば、個人的な利害に基づく盗みや殺人であっても、正当なものとして許されるのだと、この物語は伝えたいのだろうか。
鬼は悪の象徴であり、悪しき存在であるという前提は認めてもいい。しかしそうした理由だけで、その鬼を排除する行為は全面的に正義とみなされるのだと、この物語は伝えたいのだろうか。社会(みんな)が悪いやつだと決めたときは、鬼は殺してもいい、殺されてしかるべきだと教えたいのだろうか。
しかも、この物語の中で、確かに鬼は「人食い」として設定されているけれど、少なくともジャックやその家族や周辺の人物に対してなんの悪さもしていないのである。
もし、抽象的にしろ「悪」を破滅させることそのものが正義なのだと言いたいのだとしたら、その「悪」であることはだれが判定するのだろうか。多数とか社会とか、分かるようで分からない集団の意思で決められるのだとしたら、世の中のあらゆる争いはすべて正当化されることになる。
ナチスにとってユダヤ人は排除しなければならない劣等民族だったし、日本がかつて国をあげて戦った相手は、なにしおう鬼畜米英であった。
現在だってアメリカのイラク占領統治は正義のためだし、それに抵抗するテロ側の言い分はジハード(聖戦)である。
そしてこの「ジャックと豆の木」のお話はこんなふうに結ばれるのである。「・・・・それから後はお金は有り余るほどあり、みんな幸せそのものでしたとさ」。
相手を殺し、略奪した金品で、ジャックの家族は犯罪者として罰せられることもなく幸せに暮らすのである。恐らくそうだろう、金に色はないのだから。盗んだ金も拾った金も汗して得た金も、使うときには一緒である。そして、貧乏がどんなにつらいことかはジャックならずとも誰しも十分に理解できる。
「産め」と命じればいつでもニワトリは金の卵を産むし、自動演奏のハープは居ながらにして天国の音楽を奏でてくれるだろう。将来を約束された安穏な生活がそこにはある。こんなにも恵まれた家庭である。きっとジャックにはいいお嫁さんが来るだろう。数人の可愛いい子どもたちに囲まれて、お金持ちのジャックとその家族はとても幸せな生涯を送ることができるだろう。
「幸せなんてのは、せいぜいこんなもんさ・・・・」、「世の中やっぱり金だよね」、そんなふうにうそぶく声が、どこからか聞こえてきそうである。
そんな馬鹿な・・・・そんな場末の老税理士の呟きなど、誰の耳にも届くことはない。
2004.07.13 佐々木利夫
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