学校での授業以外に、それほど興味があったとも思えないのだが、書棚には埃をかぶった桜井満訳注の万葉集(上)(中)(下)3冊が眠っている。万葉集を研究しようとか通読したいなどと思った記憶もない上に、そもそもこの本を買ったという記憶すらないところをみると、恐らく気になる数首を調べたいと思ったことがあったという程度のことなのだろう。

 それが、源氏物語を読み始めてから、この時代の男と女の姿みたいなものに少し興味を持ち、そうした源氏物語の男女関係を考えていくうちに、その延長でほんの少しだけれど万葉集の世界にも足を伸ばすことになってしまった。

 万葉集には全部で4500首ばかりの歌が載せられているが、その成立は西暦760年くらいに大伴家持(おおとものやかもち)によって編纂されたとするのが通説で、収録された作品は古いものでは西暦400年代のものもあるが、7〜8世紀のものが多いという。つまり万葉集には400年にもわたる作品が収録されているのである。

 一方、紫式部が源氏物語を書き始めたのは西暦1001年頃だとされており、源氏物語の中にも、「万葉集の歌を色紙に書いた」などの記述や(梅が枝)、歌そのものを引用している場面などもある(以下の「夕闇は道たずたずし」参照)。紫式部のみならず、万葉集はこの時代の人々の貴重な財産として大切に引き継がれていたと理解することができる。

 この時代、結婚のオーソドックスな形式は、「通い婚」(かよいこん)、つまり、男が女の住んでいる家に通うというスタイルである。しかも一夫多妻である。男は女の家を訪ね、そして朝、まだ暗いうちにそこを出る。
 一夫多妻ということは、現代の結婚のような、男と女が一つの家庭を持ち、そこへ男が毎日仕事から戻ってくるという前提は成立しない。むしろ、多妻であるぶんだけ「毎日は来ない」ことのほうが当然なのである。場合によっては「夜離れ」(よがれ)と言って、いつの間にか男が通ってこなくなることも稀ではない。

 だから女は、結婚したとしてもただ待つだけである。女性は寺参りなどのほか自分で外出することはない。ひたすら男の通ってくるのを待つだけである。
 結婚が何年も何年も続くとするならば、その間、女は、毎日待つだけである。何日も、何日も、そして何年も、何年もである。

 そうした時、女が男に気持ちを伝える手段は手紙しかない。手紙とは「歌」である。恋愛も結婚も、その後に続く長い夫婦生活も、すべて女はひたすらに待つのであり、その待つ心は歌に託して男に伝えるしかないのである。


 恋ひ恋ひて会える時だに             おおとものさかのうえのいらつめ
   愛(うつく)しき言尽くしてよ 長くと思はば   
大伴坂上郎女(巻4.661)
     恋しくて恋しくて、やっと逢えたそのときには、ありったけの言葉で愛していると言って欲しい
      ずっとずっと私といたいと思うなら、繰り返し繰り返し・・・・・・。

  (気持ちのおもむくまま、好きなように意訳してみた。感情移入が大きくて正確さに欠ける点はご容赦)

 
恋の始めだろうか。こんなにもまっすぐな感情を、男がどこまで受け止められるかどうかは難しいところだけれど、切ないまでの必死の思いがストレートに伝わってくる。

 
梓弓引かばまにまに依らめども          いしかわのいらつめ
   
後の心を知りかてぬかも             石川郎女(巻2.98)
       梓弓を引くように本気で私を誘ってくれるのなら、素直についていきたい
       でも、いつかあなたは心変わりしないかと、それだけが心配で・・・

 男はどんな時でも本気だと言うけれど、いつの世もその心の見えることはない。それは女も同じだけれど、ただ待つだけの女にはいつまでも不安だけが胸の奥にしこりのように残っている。そして時に心は移ろい、変わっていく。なぜ?と聞かれて、答えようもないのだけれど・・・・・。

 
朝寝髪われはけづらじ
   
愛しき君が手枕 触れてしものを        作者不詳(巻11.2578)
       こんなにも遅い朝、乱れ髪・・・・、でも今日はこのままにしておきたい
       大好きなあなたが腕枕しながら撫でてくれた髪だもの・・・・・・


 愛されていると信じることとはこんなにも素直な気持ちになれるのだろうか。寝乱れの艶やかさとは別に、少女のような可憐さも、自分だけを見ていてくれているとの自信からであろうか。

 夕闇は道たずたずし 月待ちていませ       おおやけめ
   わが背子その間にも見む
            大宅女(巻4.709)
       夕闇の道は暗くて心細いから、月が出るまでここで待っていて・・・・
       その間だけでもあなたの顔を見つめていたいの


 待ちこがれた男、来るということは帰るということと同じ意味である。残された女はまた待つ女である。こんどはいつ来てくれるのか。待つだけの女はそのことを男に聞くことなど、できはしない。聞きたいけれど、聞けないのである。聞いてはいけないのである。聞くことは疑うことだし、疑うことなど、ひとかけらもあってはいけないのだから・・・・・。
 「見む」は、見つめると訳したけれど、「もう一度床に入りたい」の意味かも知れない。そうだとすれば、この歌は恋歌を大きく越えてしまうことになるのだが・・・・。
 この歌は、源氏物語の女三宮のところから源氏が帰ろうとする場面で引用されている(若菜・下)。

 春雨に 衣はいたく 通らめや
   七日し降らば 七日来じとや 
         作者不詳(巻10.1917)
       (「雨が降っているから逢えない」、あなたはそう言った)
       春雨が服を通して素肌まで濡らすことなんてあるはずもないのに・・・・
       一週間降り続いたらその間、ずーっと逢わないつもりなの?


 男の言い訳に、女はいつも敏感になる。小さなしぐさ、さりげない気配、いつもと同じ言の葉のひとつひとつに、女は恋の終わりを予感する。なんでもないことにも恐れている。勝手な思い込みなのだと自分に言い聞かせている。春の雨は女の情感を研ぎすます。

 
わが背子に または逢はじかと 思へばか     たかだのおおきみ
   今朝の別れの すべなかりつる  
       高田女王(巻4.540)
       もう一度逢いたい・・・・・・それなのに
       今朝の別れの気配がやるせなく心にしみる
       (もう私たち、終わったのね・・・・)

 そして予感はいつか現実となる。つのる気持ちとは裏腹に、女は戻らないであろう男を直感で知る。男が女に夢を見なくなることと、女が男に想いをつのらせていくこととは何の関係もない。なのに、どうしてこんなに切なく、苦しく、そして哀しいのだろうか。
 「想いは伝わる」、「願いはかなう」・・・・、冷めた恋に、言葉のなんと空虚なことか。
 それでも女は来ない男を待たねばならない。待つことだけが女にできるたった一つの祈りであり、救いなのだから。


 女は歌に託して想いを男に送り続ける。繰り返し繰り返し作り続ける歌はやがて上達し、いつかはその歌に魂がこもり、男は私を訪ねてくるに違いない、女は信じて歌を送り続ける。やがて歴史に残るほどにも彼女の歌は上達してゆく。上達するということは、なんと悲しいことなのだろうか。

 万葉集の時代は400年に近い。全20巻が時系列に並んでいるわけではないから、時の流れを直接言葉で感じるとることはそんなにたやすいことではないし、全部を読み通す力などとうに消えうせている私だから、万葉集編纂400年を実感することは不可能に近い。
 しかし、拾い読みではあってもその400年はまさに悠久であり、大河であり、人々のおおらかさが脈々と続いているさまは、現代の目まぐるしく変化する時代から見ると、確かに別世界があったのだと知らせてくれるほどの長さである。

 今の私の時代から400年前といえば西暦1600年である。関が原の戦いの真っ最中である。そんな時代から400年、秀吉、家康、そして明治、大正、昭和、平成・・・・・、携帯だネットだと世の中は変化する一方だし、昭和初期の言葉だって理解できない人類が増えてきた。100年ですら歴史であり、古典である。
 夏目漱石が最初の小説「我輩は猫である」を書いてから、もうかれこれ100年になる。残念なことに夏目漱石を原文のまま読み解く力は今の人にはない。内容の理解ではない、読むという行為それだけのことであってもである。そのことを非難するつもりはない。それだけ言葉が変わってしまっているのだから。

 もちろん万葉の400年間にだって、様々な出来事があったに違いない。ただそれにもかかわらず、拾い読みにしか過ぎないけれど、この時代に、理解できなくなるような言葉の断絶があったとは感じられない。紫式部が万葉集を自分の時代に当然あるものとして日常的に理解していたことも、その証拠の一つと言えるだろう。

 話が万葉の恋歌から少し外れてしまった。ただ、あまりにも変化する現代は、変化を望ましいものとして肯定し、既存のものを否定するという過程の中で、何かとても大切なものを失ってきたのではないか、先人が努力の果てに築き上げてきた宝物のその価値を、十分に味わう前に捨ててしまっているのではないか、変化そのものを善だと無批判に思い込まされてきたのではないか、そんな風に感じているのである。

 万葉の恋歌が、編纂からでも1200年、個々の歌なら詠まれてからそれ以上もの時を経た今でも、我々にその切なさをストレートに伝えてくれる。このことは、この目まぐるしく変化する21世紀とは一体何なのだろうかという素朴な疑問を、改めて私たちに突きつけてくる。

                       2004.05.25    佐々木利夫


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