むかしむかし、たくさんのきょうだいアヒルの中に、泳ぎが下手で黒い毛のアヒルの子が一匹いました。仲間はずれにされたそのみにくいアヒルの子は、成長しやがて素敵な白鳥になりましたとさ。

 いじめられ、疎外され続けてきたアヒルの子は、人もうらやむ白鳥になったのである。なんたることか、鳩でも雀でもなく白鳥である。たくましさとは反対側に位置しているけれど、優雅で物静かで、鳥の中でも数段格上の存在として認識されている白鳥である。姿そのものが、「お前たちなど足元にも及ばない崇高な存在」と、誰もが認める白鳥に、そのアヒルの子は変身したのである。

 でもこのお話は、タイトルが間違っているのである。この主人公は「みにくいアヒルの子」なのではなく、「アヒルの子に勘違いされた白鳥の子」なのである。

 そして、そのみにくいアヒルの子をいじめた仲間たちは、生涯アヒルの子なのである。だれにもなんともできず、自分でもなんともできない、絶対不変のアヒルの子なのである。

 私は、そのみにくいアヒルの子が、ひたすら神様にお願いするのでもいい、自ら一生懸命努力するのでもいい、その結果として白鳥になったというのなら、この物語の意義がよく分かる。

 でも、最初から白鳥になることが決まっているこのケースに、一体何の「寓意」があるのだろう。このみにくいアヒルの子が、もし白鳥の子ではなく「カラスの子」だったら、仲間からいじめられ続け、自ら「みにくい」ことを自覚し続けたその嘆きの果ても、やっぱりその子は黒いカラスのままなのである。

 もちろんこの物語を、「内在する才能もしくは潜在能力の開花への希望」というように解釈することも可能であるかも知れない。しかし、その才能や潜在能力が絶対的な錯覚に基づくものだとしたら、このストーリーには何の教訓も含まれていないことになるのではないだろうか。

 努力が報われるとは必ずしも限らない。それでも人は努力する。それは可能性の問題だからである。どこに目標を置くかはとても難しい問題だけれど、それでも人はたとえ見果てぬ夢であってもそこへ向かおうとする。それは、見果てぬ夢でも努力のしがいがあるからである。実現しなくても近づくことくらいはできると信じ、その努力そのものに価値を見出しているからである。

 人は鳥になりたいと思ったことで飛行機を発明したのかも知れない。でも人は鳥にはなれないのである。鳥のように大空を飛ぶという夢は実現したかも知れない。でもそれは「鳥のように」であって、決して鳥になったのではないのである。
 ことわざにも「蛙の子は蛙」とあるように、アヒルの子はアヒルであり、白鳥になることなぞ決してあり得ないのである。

 童話は子どもに夢を与えるものだと思う。でももしこの物語を読んだ子が、健気にも「夢を持ち続けてさえいれば白鳥になれる」と信じ込んでしまったとしたら、そしてやがてアヒルは決して白鳥にはなれないことを知ったとしたら、その絶望は錯覚を与えた大人の責任である。
 努力も何もあったもんではない、単にそのことが幻想だったのだと知らされたとき、それでも、「ゴキブリだって頑張れば鳥になって大空を羽ばたくことができる」と、大人は胸張って言い続けることができるのだろうか。

                       2004.07.12    佐々木利夫


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