もどかしさの背景


 小川洋子の「蘇生」という短編小説を読んだ。ストーリーよりも、もどかしさの描写が妙に実感できる作品だった。
 それは、背中にできた腫れ物、そしてそれを切開して治療した傷跡が、どんなに首を回しても、また、鏡を何枚か使ってみても視界からほんの少しずれた場所にあるために、どうしても見ることができないというのである。

 こんな気持ちは、なんとなくよく分かる。見えたからって痛みが引くわけではない。治療に役立つわけでもない。見えないからって生活に支障があるわけでもなく、気持ちの問題さえ除けば不便ですらない。つまり、なんてことないのである。
 それにもかかわらず、見たいという積極的な気持ちとは少し異質な、見えないことがもどかしいのである。他人には見ることができるのに本人には決してそのことが許されない、これは一面、非常に不条理な現象だと言える。

 人は、少なくとも自分に対しては主人公だと思っているから、仮に思うに任せないことがあり、場合によってはしがらみにその身を委ねることがあったとしても、それは己の承認、または実力若しくは努力した範囲内での限界によるものであって、そのことに満足するかどうかは様々だとは思うけれど、少なくとも折り合いはつけられる。

 しかし、このように背中が見えないなどというもどかしさは、肉体の構造上の限界と言ってしまえばそれまでだけれど、限界というには大げさ過ぎる。限界というのはもっと社会的に承認されるようなものであって、例えば100メートルを10秒で走るとか、100キロ持ち上げるとかのように、その内容というか目的が「社会的に是認」されているようなものであってはじめて、自身にとっても納得できるものになるのではないかと思う。

 普段の生活の中でも、こうしたもどかしさはそれなり感じることがある。
 冬道を歩いているとき、轍にはまったジュースの空き缶が、折からの強風にあおられてクルクル空回りしながらなんとかそこから抜けようとしている風景などもそうだし、大雨の後の橋桁に木材が引っかかっていて、濁流に揺られながらもなぜか微妙なバランスがその状態を維持しているとき、春先の道路の雪解け水の流れが、小さな雪のかたまりに邪魔されているときなどもそうだ。

 こうした出来事は結局、誰に話すでもなく、うやむやのうちに自身の中にしまいこんでしまうしかないものなのだが、「もう少しでなんとかなりそうなのに決着がつけられなかった」という感情はけっこうしつこいものがあって、いつまでも記憶の底に澱んでいる。
 そうしたもどかしさの背景には、「落ち着かない気持ちをそのままにしておきたくない」、「解決できることは可能な限り解決したい」という感情がある。例えそれが有意義な結果を生むものでないにしても、結論の出る可能性のあるものについてはそれなりなんとかしてすっきりしたいという、そうした意識が人には始めから組み込まれているのではないのだろうか。
 それは若しかすると、「組み込まれた成功体験希求」として、人間だけが持っている遺伝子レベルの本能なのかも知れない。

 イソップ物語の「すっぱいぶどう」は、手の届かないぶどうはすっぱいものだとして諦める物語だが、キツネはそのぶどうがすっぱいとは決して信じていないのである。本当は何が何でも手に入れたいのである。ただ、どうしても届かないから、そのぶどうを無価値なものとして自分を説得しようとしているだけであり、本音は未練たらたらなのである。

 恐らく人は、その長い生物としての歴史の中で、そのひ弱い体格にもかかわらず生物の頂点に立つための手段として、「できなくっても、どうってことない」ことに対しても挑戦しなければならないことを学んできたのではないだろうか。

 人が一生で経験できることなど、たかが知れている。例えば小学生が臨海学校へ行ったことで自然を体験したなどと親は思っているかもしれないが、自然なんてそんなものではない。そして生物には世代を超えて残していかなければならない経験というものがどうしても存在するし、その経験とは個人の経験だけではなく種としての経験も当然に含まれる。
 むしろ、個人の経験なんてものはたかが知れているからこそ、個以外の経験を学ぶ必要があるのであり、そうしたものは現代では言葉とか文字で残すことができるけれど、最も基本的なことは遺伝子というか本能の中に書き込むしかないのである。

 幾世代もの挑戦の中で、種は、その目的が大き過ぎて特別な能力を必要とするものではなく、「些細な努力で実現できるもの」、「努力してもさほど報われないがしかし大切なもの」に挑戦することこそが必要なのだとする意識を培かってきたのではないか。
 人類が種として生き残っていくためには、そうした地道な、場合によっては幾世代も無駄な努力を重ねなければならないような、そんな意識を普遍的な本能として位置付ける必要があったのではなかろうか。
 つまり、小さな成功体験の積み重ねこそが人を育て、人類を成長させてきたのではないかということなのである。

 最近の若者は本を読まなくなったという。若しかするとそれは学校が読書感想文などという、とてつもない仕組みを考え出したからなのかもしれないけれど、読書をしないと言うことは、経験を引き受け、たくましく考え、そしてそれを次代に伝えていく手段を自ら放棄しようとしていることなのだと思う。
 そうした状況はとても危険なことだと思うし、だからこそ、こうしたどうでもいいような「もどかしさ」に人が囚われてしまうという現実を、なぜかもっと大切にしたいと思う。もどかしさとは、若しかすると「もう少し続けてみたら?」とか、「諦めないでほしい」と遺伝子が後押ししている種としての声なのかも知れないと思うからである。

 ただ、こうして考えてみると、余りにも些細なこと、無駄なことに囚われるというのは、心理学でいう脅迫神経症とどう違うのか、やや混乱してしまうけれど、そこはそれ、自分に都合のいい部分だけを取り上げて、それなりの理論構成をするという手法は、これもまた人類の得た貴重な財産の一つであり、今を生きている私の特権でもある。

 かくて、暇つぶしのへそ曲がりは、路地裏にあるたった一人の大統領執務室の片隅で、砂糖抜きコーヒーを片手に人類に思いを馳せ、その未来を愁い、無責任な理論を臆面もなく展開しているのである。
                  
                      2003.9.29  佐々木利夫