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童話の内容が時代や社会環境によって変化していくことは、当然というよりはむしろ必然と言うべきだろう。だからそのストーリーが記憶と多少違っていたところでそんなに違和感はないつもりだった。
しかし童話を素材にしたエッセイを書き始めてから、図書館や近くの本屋で改めて筋書きを確かめる機会が多くなってきて、それで感じたのはその変化は多少どころではないということだった。
それにしても最近の桃太郎はすごい。なんと鬼退治で分捕った宝物を、後で返しに行くというように書いてある本がある。恐らく他人のものを盗ったままではいけないという教育的配慮からなのだろうが、そんなら最初から盗らなければいいのにと、つい思ってしまう。
そもそもこの物語は、鬼がどんな悪いことをしたのかが何も示されていない。鬼と悪については既に「ジャックと豆の木」でも書いたから、ここでは詳しくは触れない。しかし、鬼という言葉そのものの中に、説明不要の悪が象徴的に存在しているのだとする考えも分からないではないが、桃太郎を正義、対立する鬼を悪と位置づけるのなら、例えばあらかじめ鬼に悪逆非道な行為をさせておくなどの事前設定が必要だったのではないだろうか。
そうした事前準備がない上に、私がへそ曲がりだからそう考えてしまうのかも知れないけれど、どうしても片手落ちのイメージから抜け出せなくて、ついつい鬼に味方したくなってしまう。
まず第一に、鬼の悪を立証しないでおいて、「鬼がいる」、「鬼が島に鬼退治に行く」というのは、まさに桃太郎の一方的な侵略行為ではないかと私は思うのである。
こうした桃太郎的理論展開と昨今の「イラク島へフセイン退治に行く」というのとは一体どこが違うのだろう。「悪いものは悪いんだ」というだけで攻めることが承認されるのだとしたら、悪いとされる側はたまったものではない。
しかも桃太郎軍団の構成は、さる、きじ、いぬという、ハイテク性能の武器を装備した主人に絶対忠実な部下である。猿や雉や犬に現代のハイテク機能を重ねるのは必ずしも適当でないかも知れないけれど、牙や爪という武器、空からの偵察力というのは、鬼の砦の鍵を空から忍び込んで開けることやその後の戦いの方法なども合わせるならば、鬼よりも数段優れている装備だと言えるのではないだろうか。
それになんといっても、望むならどんな有能な人材(?)であっも直ちに忠実な部下にすることができる、「きびだんご」という豊富な資金力が磐石な基礎として桃太郎を支えている。
正義の本質を弱いものだと認定し、それをカバーするための武装ならば許されるのだと我々はつい思いがちである。無意識に凶悪な顔をした筋肉もりもりのレスラーと努力と根性だけで戦ってきた優しい少年戦士の対決という構図を、我々はいつもどこかで描きたがっている。
しかし、そうした理屈はどこか変である。そこには「正義だけれど弱い」という論理と、「弱いのは正義である」という論理とを混同、もしくは同一視するような錯覚があるのではないだろうか。
正義の検証をすることなく、単純に「弱いこと」が正義だと錯覚し、権力や力は強いというだけで悪であり、少数や非力や貧乏な者の行動は、そのことだけで正しいのだと、人はいつから思い込むようになってしまったのだろうか。
さてもう一つ、第二の疑問がある。物語を読む限り、鬼退治は桃太郎の個人的な行動である。被害者から頼まれたわけでもなく、苦しんでいる村の長からの依頼でもない。ましてや国を治める行政官などから要請された行動でもないことは明らかである。
仮に鬼を証明の必要のない悪だと認めてもいい。だが、物語における桃太郎の行動は正義感に基づく彼個人の私憤である。途中で傭兵を雇っているけれど、鬼退治の発端は桃太郎個人の思いつきによる「鬼退治に行く」という突然の宣言である。
やがて桃太郎はいともあっさりと鬼軍団に勝利する。一人(?)の怪我人も出すことのない圧倒的な勝利である。
そしてなんたることか、勝利の報酬は船一杯の宝物である。桃太郎の目的は鬼退治だったはずである。鬼が反省し、今後悪さをしないと誓ったことで、桃太郎の私憤の目的は達せられたはずである。正義の実行に伴う報酬は「正義の実現」だけで十分なはずである。
にもかかわらず桃太郎は山のような宝物を持ち帰った。宝物を船に積んだ桃太郎は故郷のおじいさん、おばあさんのところへ勇んで帰るのである。桃から生まれた桃太郎は、こんなにも素晴らしい子供に育ったのである。
鬼の悪を立証しようがしまいが、はたまた鬼退治が私憤の結果であろうがなかろうが、勝った者は敗者の全財産を私物化できるのである。
たとえその宝物を貧しい人にばらまいたところで、正当な持ち主への返還という手続きがなされるのならば格別、ばらまきは善意を背景にしたところで桃太郎に帰属した財産からの贈り物であるという図式に違いはない。猿も雉も犬も、きびだんごだけで満足しなければならない。なんといったって桃太郎はご主人様であり、猿どもは単なる従者にしか過ぎないのだから。
「それからは、幸せに暮らしましたとさ・・・・・」、物語の終わりはいつもこうである。
そうだろう、そうだろう。山のように宝物を船に積み意気揚々と凱旋する桃太郎の得意満面、そしてそれを出迎えるおじいさんおばあさんの相好を崩した笑顔が目に見えるようである。
仮に私が桃太郎だとして、あなたから「今回の行動は、一点の非の打ち所もない完璧な正義だったと胸張って言えるか」と問われるならば、恥ずかしくてとてもとても、そんな風には答える自信がない。
やっぱり、最近の絵本のように宝物は鬼に返しに行ったほうがいいのだろうか。それとも福祉もどきの施設にでも少し寄付して、一方的な侵略者としての気後れをどこかで帳消しにしてしまう道を選んだほうがいいのだろうか。
2004.08.22 佐々木利夫
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桃太郎