昔話の始まりや終わりの言葉などは、ある程度パターン化されているとは言いながら様々だろうし、それがそれぞれの地方の特色にもなっていると言えるだろう。

 岩手県遠野では「むかし、あったずもな」で始まり、「どんとはれ」で終わる。四国での始まりは「とんと、むかしのことじゃそうな」と聞いた。
 だが北海道では、私の記憶にある限りこのような、いかにも伝承童話と思えるような特定のパターンによる話しかけはされてなかったような気がする。
 そうは言っても、北海道らしい特徴も地域性もないと言ってしまえばそれまでだけれど、「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがありました」と、教科書の標準語みたいな言い方で始まっていたような気がしている。

 ところで、考えてみると童話の主人公は様々に変化するけれど、その主人公を支えているのはなぜか「おじいさん、おばあさん」が多い。そんなに詳しく検証してみたわけではないから、おじいさん、おばあさんの出現頻度がどの程度かと問われてもデータを示す自信がないけれど、「おじいさん、おばあさん」に代わって「おとうさん、おかあさん」が出てくるような例は聞いた覚えがない。

 しかも、そのおじいさんとおばあさんは、なぜか正直者で子供がいなく、しかも貧乏である。子供が居ての孫であり、孫あってこその「おじいさん、おばあさん」だろうから、子供の居ない老夫婦の呼称としては変だと思うけれど、まあその議論はとりあえず置いておくことにしよう。

 もっとも民話や童話が伝承されてきた時代というのは、日本では伝来の土地にしがみついて生きるしかなかった農耕民族の生活の中でだったろうし、そこでの貧乏は当たり前のことだったのかも知れない。また、主人公を際立たせるためには多数の兄弟の中の一人というのよりは、子供の居ない夫婦に突然訪れた特殊能力を持った子供というほうがドラマにしやすかったのではないだろうか。そして正直こそは、伝承すべき主体であったろうから・・・・。

 それにしても物語が「おじいさん、おばあさん」で始まることの必然は、ここからは必ずしも見えてこない。しかし、このように考えてくると、昔話の語り部そのものが老人であったという事に思いが及ぶ。
 語り部としての「おじいさん、おばあさん」と、物語の登場人物としての「おじいさん、おばあさん」とは何の関係もない。そのことは、「おじいさん、おばあさん」が出てこない昔話だってたくさんあることからも理解できる。ただ、それでもやはり全く関係がないとは考えにくい。

 人間の平均寿命は女85.33才、男78.36才(2004年7月、厚労省発表)である。あくまで平均だから、誰でもその年齢まで生きられるという保証はない。ただ、それにしても「80歳前後まで生きる」という現実は、生物の寿命としては異常な長さであるような気がしてならない。

 具体的な証拠を示さずに直感を前提に論証しようとするのが私の悪い癖だけれど、通常生物は、昆虫、魚などでは卵を産むことで親の役割は終わりであり、鳥類、哺乳類にしたところで、せいぜいが子育てを終えることで親の役目は終了する。それは、生物として「生きる」ということは、子孫を残すということと同義だからである。
 つまり、子供に、自身で生活できるだけの環境を与えたり、その子が自活できる能力を身につけた時が、親と子の別離の時であり、場合によっては親の死の時でもあるということである。

 このように考えてみると、様々な動物と比べて人間の寿命というのはとてつもなく長い。人間の生物としての成熟する年齢、つまり子供を作る能力の完成する時期は、恐らく15歳前後と考えていいであろう。仮に、もう少し遅く20歳を一つの目安と理解したとしても、親は40歳で子育てを完了することになる。

 子孫を残すのが親の務めであるという前提を置くなら、人間といえども哺乳の時期を終え、その子が次の子供を作ることのできる状態になった時点で、親の役目を終えてもいいはずである。

 にもかかわらず、人間には「孫」が存在している。どんな場合にも必ず居るというわけではないだろうが、平均的には必ずと言っていいほど孫がいるのである。そして孫の子を「ひ孫」と呼び、更にひ孫の子を「やしゃご」と呼ぶなど、そうした存在を前提とした言葉さえあるのである。
 動物にだって子育てが終了すると次の子育てに入る種族がいるだろう。だから結果的に「事実上の孫」の存在があり得るかも知れない。しかし、成人すれば親子(そのほとんどは母子であり、父は生殖だけである)ですら他者であり、ましてや祖父母と孫という関係で生活が成立しているなどという例を私は知らない。
 「じいさん、ばあさんと孫」・・・・・、人間にはどうしてこんな生物としての環境、寿命の長さが認められているのだろうか。

 少し理屈が長くなった。ここで昔話の「語り始め」が生きてくるのではないだろうか。「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがありました」。
 そうなのである。ここでは「おとうさん、おかあさん」ではダメなのである。昔話を語って聞かせるのは、朝早くから夜遅くまで、そして時には夜なべをしてまで生活を支えていかなければならない親ではなく、労働からは一歩離れた生活環境にあるおじいさん、おばあさんの役目だったのである。

 つまり、昔話を、子供が生きていくための知恵や生活の掟の伝承というように捉えるならば、そうした人間性、社会性を伝えていくのは親ではなく祖父母の役割だったのではないかということである。
 人は生物として生き延びるだけでは不完全な存在としてこの世に誕生してきた。すべての生物が、生存のために牙、爪、鎧、羽などなど、身体の構造を変えてまで環境に適応しようとしてきたのに対し、人間は無防備な裸のままで生まれ、そして変態も脱皮もすることなくそのままの形で育つことになったのである。

 そうした進化を選ばなかった人間のなんと非力なことか。裸の人間には武力にも環境の変化にも抵抗する力を持っていない。それをカバーするため、人には、食い、そして生殖することに加えて、知恵を用いて社会生活を維持するための集団としての多くのルールを作り上げるという手段を発明した。そしてそれを人類として一つの新しい独立したグループになるための条件、種として生き残るための基礎としたのである。
 そしてそのためにおじいさんおばあさんは、己の子供の成人を超え、孫の時代まで生き残る必要があったのである。
 人類は生物としての子育ては親に任せたけれど、人間としての知恵の伝承は祖父母に託すことにしたのである。

 現代は様々なコミュニケーション手段があるから、必ずしもそうは言い切れる状態にはなくなってしまっているが、昔話の語られる時代には、知恵を後世に残してゆくのは口伝しかなかったのである。文字や紙のない時代、そして文字を知らないことが当たり前の時代では、昔話を通じ、口伝えでしか知恵や掟を伝えていくことはできなかったのである。そうした重大な役目を担ったのが「おじいさん、おばあさん」だったのである。

 どうして昔話は「おじいさん、おばあさん」で始まるのか、これで私なりにやっと分かったつもりになったのである。だからこそ人間はその寿命を、「知恵を孫に伝えるに十分な余裕」を持たせる長さで設計されたのだと思うのである。

 さてさて、こう結論付ける一方で、現代は余りにも急速に核家族化が進み、そうした伝承の場を否定した社会を自らの手で作り上げてしまった。かてて加えて、果たして自分はその役目をきちんと果たしているのかと自問し、密かに顔を赤らめているのである。


                        2004.09.25    佐々木利夫


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