ラジオで「乳がん患者よ温泉に入ろう」という番組を聞いて、そうした気持ちは恐らく男には頭でしか理解できないんだろうなと思いつつ、ふと、かつて聞いたことのある「乳房喪失」という言葉が浮かんできた。そしてそれがきっかけで、記憶の糸を手繰り手繰り、もうすっかり忘れかけていた歌人、中城ふみ子の名を思い出した。

 彼女は乳癌で両乳房を摘出され、「乳房喪失」という歌集で名を馳せた北海道生まれの夭折の歌人である。

 冬の皺(しわ) 寄せゐる海よ 今少し 
            生きて己の 無残を見むか


 彼女の代表作とされる歌である。「冬の皺」という、とてつもない表現力を持つフレーズが、読む人に暗い海に重ねた己が人生の重さを知らしめてくれる。

 彼女は大正11年(1922年)、北海道帯広市の比較的裕福な呉服店の長女として生まれた。20歳で北大出身の国鉄エリート技師と結婚し二男一女をもうけるが、夫は鉄道汚職事件に関わったことで身を持ち崩し、やがて金融業にも手を出して失敗する。そうした生活に疲れた彼女は、28歳で別居し29歳で離婚する。



 それからである。離婚した彼女は突然と言っていいほど魔性の女に変貌し、同時に爆発的な天賦の才を開花させていく。その魔性ぶりは奔放などと言う生易しいものではない。
 その魔性は、何か見えざる者との命との引き換えによる契約だったのかも知れない。僅かに残るともしびと引き換えに、その見えざる者はそれこそ憑依ともいうべき圧倒的な力を彼女に与えるのである。

 離婚一ヵ月後に彼女は左乳房の異常を自覚し、4ヵ月後の30歳で切除手術を受ける。そして更に一年余、転移した癌は彼女の残った右乳房をも奪うことになるのである。

 そんな中で彼女は、「解放された妖刀をもって幾人もの男たちを恋の虜にし、帯広界隈に浮名を馳せらせた。社会がまだ古い倫理観に縛られていたその時代に、彼女は人目を憚らず愛人たちとの不倫に走り、彼らを手玉にとって翻弄(する)」(本田成親、落日の煌き−中城ふみ子の魂の光芒より)のである。

 彼女が「海の皺・・」を詠んだのは両乳房を失ってからだと言われているが、そうした魔性の力に全き身を委ねつつも、それでも彼女は見えざる者との契約の対価の支払いを確信している。

 われに似し ひとりの女不倫にて
         乳削ぎの刑に 遭はざりしや古代(いにしえ)に


 彼女は不倫の報いに対するあがないを「乳削ぎの刑」と呼び、自らを冷たく突き放す。
 そして誰からも理解されない行き場のない嘆きを、読者に向かってすら半ば威嚇するかのように、こんなふうに歌うのである。

 みづからを 虐ぐる日は声に唱ふ
         乳房なき女の 乾物(ひもの)はいかが?


 死はしかし、確実に契約の履行を迫る。それも彼女に対してだけ・・・・。

 枇杷の実を いくつか食べてかへりゆく
         きみもわが死の外側にゐる


 枇杷を食べるのはその客だけではない。結局は看護婦も医者も、いやいや、他者のすべてが「枇杷を食うきみ」であり、人々はすべて自分の死とは無縁であると彼女は知る。
 人は結局一人で死ななければならない。彼女は病院でも憑かれたように担当の医師や仲間の歌人と関係を持ち、東京から取材に訪れた新聞記者とは二週間にもわたり病室の同じベッドに添い寝をさせるという行為に出る。
 そして病院からの非常識だとの指摘に、「死を待つ身の最後の安らぎをどうしてあなたたちは奪うのか」と抗議するのである。
 それはもう、常識であるとか善い悪いという枠を超えた、死にいく者の魂の叫びであるとさえ言える。他者の介入を許さない、己の行く末の無残さを見極めた、一人の女の一人で死んでいくことへの絶叫でもある。

 彼女の作品は、その類まれな歌の力を発見した、全国誌「短歌研究」の編集長、中井英夫の努力で、「乳房喪失」と題する歌集として出版されることになる。
 しかし、そのゲラ刷りが届けられたのは彼女の死の僅か35日前のことであった。

 同い年であるその中井英夫へ、彼女はこんな手紙を書く。彼女の最後の手紙だとされている。

 中井さん
 来てください。きっといらして下さい
 その外のことなど 歌だって何だって
 ふみ子には必要でありません
 お会ひしたいのです。


 生き急いだ、すざまじい歩みの中で、ともすれば強烈な歌を中心に印象付けられ、泣かない女と思われている彼女ではあるが、この手紙には少女のような幼さと素直さを感じることができる。
 手紙という、他人に向けた形として後に残る文章だし、彼女のそれまでの生き方から見て、残された最後の媚だと見ることも可能である。しかし、ここでは素直に文面どおりの気持ちだと受け取りたい。
 中井からの返事は死の前日8月2日に発信された。その手紙をふみ子は読むことがなかったけれど、「ふみ子」と呼びかけ、「小さな花嫁さんへ」との言葉で結ばれていたと言う。

 「死にたくない」・・・・・、これが彼女の最後の言葉だったと伝えられている(佐々木啓子編、中城ふみ子資料目録P16)。
 離婚して己が生き様をひたすら自分だけに命じて僅か三年余、昭和29(1954)年8月3日、壮絶で若過ぎる32歳の「ひとりのおんな」の、それでもやはり静かな死であった。

 今年は没後50年にあたる。偶然にしろ、記憶の底から彼女が浮かび上がってきたのは、やはり何かの縁かも知れない。機会があれば帯広にあるという彼女の歌碑でも訪ねてみようかと、そんな気持ちにさせる夏の日の午後である。


                            2004.06.29    佐々木利夫


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中城ふみ子、最後の手紙