三つの願い


 外国の童話だったと思うけれど「三つの願い」という話があり、良くできているせいかこれを真似たパロディもどきの話も多いことから、肝心のこの話しの願い事がどんなものだったか、もうすっかり忘れてしまっている。ただ、結局は、誤ってか若しくは結果を予測しないままに望んだ愚にもつかない二つの願いを、三つ目の願いで取り消すことで、願い事をしなかったと同じ状態に戻ってしまうという話だったと記憶している。

 魔法使いにしろ悪魔にしろ、はたまた神様にしろ、人知を超えた存在に人知で叶わぬ願い事をするということはそんなに珍しいことではない。
 流れ星にも七夕の短冊にも人は願いを託したし、更には神社などはそのために存在しているかのように、初詣に限らず賽銭箱は常設してあり、絵馬もその目的は同様であろう。
 八十八ヶ所巡りが四国巡礼を発祥としているのかどうか分からないが、全国いたるところにOOヶ所巡りは存在し、そこにある地蔵さんや観音様には願い事を望む人々の賽銭がいつも積まれている。

 こうした風習は日本独自のものではないだろうが、なぜかその願いたるや必ずちっぽけなものに限られているような気がしてならない。…というよりは、大きな願いというものは、決して叶わないのだと、人々は思い込んでいるのではないだろうか。

 「健康であるように」、「家族仲良く」、「会社の業績がもう少し好転するように」、そして「受験、就職、恋愛、結婚、安産」などなど。
 見て分かるように、これらの願いは人知を超えるようなそんな大それたものではない。むしろ、努力と偶然のどっちつかずの願いだということができよう。

 だから「三つの願い」に象徴されるような、そんなとてつもない願いは、結局はもとの木阿弥になる、つまりは実現しないのだということを、人は始めから分かっているのであり、その教訓としてこの物語は存在しているのだと考えた方がいいのかも知れない。

 それでいいのである。「努力すれば叶うような願い」でなければ、神は叶えてくれないのである。「三つの願い」の話とは、そのパロディも含めて決してその願いが成就し、めでたしめでたしとなるストーリーであってはならないのである。

 神や人間を超えた存在への願いというのは、本来実現不可能だからこそ意味があるのだと思うのだけれど、人は決してそのようには理解していない。つまり、どんな願いも努力した範囲内でしか叶わないということを、人は経験則からいやというほど思い知らされてきたのである。
 このことは、もっとはっきりと言えば、「願いを叶える存在としての神」は存在しないということを人は十二分に知っているということである。

 それでも人は諦められはしない。いま勉強している内容と明日の試験問題が一致するかしないかは、確率の問題かも知れないけれど、その確率は自身では変えようのないものであり、まさしく神の領域である。しかし神は頑なにその確率を変えようとはしない(変えられない)のである。

 だから人は神に、決して「世界の平和」なぞ願わないのである。そんな大それた願いは神様でも困るのである。そしてだからこそ、人はその願いが叶わなくても神を恨まないのである。

 カール・セーガンが子供のころ、先生にはぐらかされた質問として、こんなことを書いている(コンタクト)。
 「先生、神様は自分で持ち上げられないような大きな岩を作ることができるのですか」。
 おお、神は万能ではないのである。