「100万回生きたねこ」(佐野洋子、講談社、1977年)は絵本である。
 もしかするとこの絵本の存在はほとんどの人が知っていて、知らないのは私ぐらいというほどにも著名なのかも知れない。しかし、私自身がこの絵本の素晴らしい世界をいま始めて知ったのは事実なのだから、「私が見つけた」という振りをして、ほんの少しにしろはしゃいでみるのも一興かも知れない。
 さればこそ、絵抜きで絵本を語るなどという無謀な企ても許されようというものである。

 この物語は、こんなふうに始まる。

 「100万年も しなない ねこが いました。 100万回も しんで、 100万回も 生きたのです。 りっぱな とらねこでした。」

 王様に、船乗りに、サーカスの手品使いに、泥棒に、ひとりぼっちのおばあさんに、小さな女の子に・・・・・、ねこは100万人の飼い主にいつも愛され、可愛がられる。そして時に老いて死ぬこともあったけれど、そのほとんどが戦争で矢にあたったり、溺れたり、手品で間違って胴体を切断されたり、犬にかみ殺されたり、背負い紐が首に巻きついたりなど理不尽な死に方だった。

 ねこの死はその度に飼い主を悲しませるけれど、ねこはちっとも幸せではなかった。このねこはいつも傲慢である。何度生まれ変わっても、一度として飼い主を好きになることはなかった。どんな贅沢にもどんな愛され方にも、ねこの死を嘆くどんな振る舞いにも、ねこは決して心を動かすことはなかった。ねこは自分しか好きでなかったのである。

 ある時ねこは、飼い主のいないのらねこだった。ねこはメスの白いねこと出会う。ねこの100万回生き返った自慢にも、はったりにも、サーカスで覚えた三回宙返りにも、白いねこはちっとも動じず無関心だったけれど、「そばにいてもいいかい」と聞いたときには「ええ」と頷いてくれた。

 白いねこはやがて子ねこをたくさん産む。

 「ねこは 白いねこと たくさんの 子ねこを、 自分よりも すきなくらいでした。」

 飼い主がいないことでやっと自立への道を歩み始めたねこは、こんなにも身近に守るべき、そして愛すべき存在のあったことを知るのである。それは始めて知った、自分以外への愛であった。
 やがて子ねこたちは大きくなり、それぞれにどこかへ行ってしまう。残された白いねこはねこの傍らでゆったりとおばあさんになっていく。

 「ねこは、 白いねこと いっしょに、 いつまでも 生きていたいと 思いました。」

 ねこは始めて白いねことともに、いつまでも生き続けたいと願うのである。だれをも愛することのなかったねこが、始めて大切な存在を見つけ、永遠にそれが続くようにと願うのである。

 ねこに他者への愛を気づかせてくれたのは白いねこである。白いねこの無関心が、大切なものの存在を気づかせてくれたのである。「一緒にいること」、「愛すること」の意味を、白いねこは無言で伝えた。自分の居場所はどこなのか、白いねこはそれをねこに伝えたかったのである。

 それでも、いつまでも生き続けたいとの願いは叶わぬ望みであった。

 「ある日、 白いねこは ねこの となりで、 しずかに うごかなく なっていました。
 ねこは、 はじめて 泣きました。
 夜になって、 朝になって、 また 夜になって、 朝になって、 100万回も泣きました。」


 ねこは始めて、とめどなく泣くのである。ねこは始めて死ぬことの意味を理解するのである。いつまでも一緒に生きていたいと願うことで生きていることの意味を知り、動かなくなった白いねこのそばで、これまで100万回も繰り返してきた自分の傲慢さと愚かさに気づくのである。

 「朝になって、 夜になって、 ある日の お昼に ねこは 泣きやみました。
 ねこは、 白いねこの 隣で、しずかに うごかなく なりました。

 ねこは もう、 けっして 生きかえりませんでした。」


 
ねこはやっと、愛する者の死を受け入れ、自分の死と重ねることのできることの意味を知ったのだろう。

 この話を「生と死の対立」として捉えるべきなのか、それとも生きることの中にある「生きる意味」そのものの中に「死」が包含されていると理解すべきなのか、それは作者の考えというよりは、読んだ人それぞれが自分の中に確かめていかなければならないものなのかも知れない。

 ねこは100万回も死を理解できなかった。現代の人間もまた、このねこと同じなのかも知れない。戦争でも、犯罪でも、通りすがりの殺人でも、こんなにも多くの人が死んでいくのに、人はそれでも人の死を理解できないでいる。

 恐らくそれは、死が遠隔操作の中に埋没してしまっていて、身近な者の死を体験することから無理やり切り離されてしまっていることも原因の一つになっているのではないだろうか。
 そしてもっと基本的には、我々が「命」を消費しながら生きていることの実感が、実生活の面で乏しくなっいるどころか完全にと言ってもいいほど消滅してしまっことが原因なのではないだろうか。
 実のところ、米も野菜も肉も魚も、私たちの命を支えているのはすべて命であり、そうした命を消耗することで我々は生きているのだというそんなことから人は命を実感していくはずなのだが、死は遠く仮想の世界へと追いやられてしまっている。

 この本をもう少し多くの人が読んでくれていたら、あまりにも殺伐とした今の時代が、少しは変わったのではないのだろうかと、非力な老税理士はうろうろと考えている。
 命がこんなにもどんどん軽くなっていく現実に、どうしてだれも不自然さを感じないのだろうか。こんな小さなひとりの事務所の片隅で世を憂いてみても、所詮はだれにも届かないのかも知れないけれど、真正面から命と向き合うという接点をどこかで作っていかないと、人はそのうちに事実としての死を忘れてしまうのではないかと思ってしまう。

 この本は子供のための絵本だけれど、とても重い思いを大人の私に伝えてくれた素晴らしい一冊であり、そうした本に出会えたことに私は心から感謝しているのである。



                            2004.10.12    佐々木利夫


             
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100万回生きたねこ
  

 知らなかったことを悔やむというのではない。どんなに数多くの経験を積んだり本を読んだりしたところで、知らないことのほうがずっとずっと多いことは承知の上だし、ましてや凡庸で怠惰に生きてきた私が、知らない世界の溢れるほど多いことを知ったところで、そんなのは当たり前のことだろう。
 それでもこの歳になって、いやいや、この歳になったからこそなのかも知れないけれど、悔やむのとは全く逆に、こんな世界のあつたことを知ったことでホットし、素直に嬉しくなることだってある。