テレビで中国人女子学生の日本での生活をレポートした番組を見た。居酒屋で働き、高い物価や家賃に苦労する、私自身の抱いている苦学生というイメージそのままの姿だった。
 そして驚いたのは、彼女らの話す日本語が、たどたどしく、語彙も貧しく、時に言い回しも変なのだけれど、それでも「あっ、これって、きちんとした日本語だな」、「きれいな日本語だな」と思えたことだった。

 間違った言い回しもある。表現できない言葉に言いよどむこともある。主語と述語が時に混乱し、動詞の使い方が変なときもある。聞いてるそばから、「これは日本人のしゃべりじゃない」とすぐに分かる言葉遣いである。

 でも、・・・・でもである。その言葉は完璧な日本語なのである。イヤ、「完璧」という表現は誤りだろう。明らかに「日本語を良く知らない外国人の話す日本語だ」ということのはっきりと分かる表現なのだから。

 だが、最近の街を歩いて感じる、中学生や高校生、時には大人の会話の日本語はどうだ。言葉は時代を映すものだし、時代に従って流れていくものだと思う。
 万葉の時代のような古から現代まで、言葉は常に変わってきた。新しい言葉が増え、使わない言葉は消え、抑揚も、話し言葉も書き言葉もどんどん変わってきた。
 そのことは良く分かる。夏目漱石の小説が古典に入る時代である。外来語の氾濫や流行語にいちいち目くじらをたてていたら、そもそも生活自体が成り立たなくなるだろう。

 それでもなお、そのテレビの中国人の話す「変な日本語」が、私には「日本語らしい日本語」に聞こえたのである。変な抑揚も変な言い回しも、そんなことを捨象して、やっぱり素直な日本語だと感じたのである。「正しい日本語」だとは言わない。だが、少なくとも私の感じる「日本語らしい日本語」がそこにあったと感じたのである。
 そして、そして、ショックだったのは、なんたることか、その話し手たるや、まだ若い中国人女性だったということである。

 このことは、変わっていく現代の日本語に、その中国人がついていけなかったことを表しているのではない。その中国人女性に日本語を教えた教師の日本語の知識が不十分だった、もしくは未完成で、方言や使われていない古い時代の不完全な言葉を基礎として教えたと言うのとは違うのである。
 少なくとも私が感じている「日本語らしい日本語」を、彼女らの日本語教師は教えたのである。教えられた彼女らは、そうした日本語を話せるようになったのである。学ぶ意思さえあれば、日本語はきちんと続いていくのである。

 「日本語らしい日本語」、そして「きれいな日本語」と感じられた日本語が、その日本語を覚えて間もないであろう外国人の口から出てきたことに私はショックを受けた。そして悲しくなった。
 大げさに言うなら、日本人は日本語を乱暴に扱いすぎているのではないか、日本人は日本語を忘れかけているのではないか、日本人は日本語を泥まみれにしているのではないか、日本語は壊れかけているのではないか、日本語を学ぼうという意識そのものが希薄になっているのではないか、そんな思いに駆られたのである。

 民族の基本とは何かというテーマは、人により様々に解釈できるかもしれないが、「言葉」がまず最初にあるのではないだろうかと、私は思っている。

 最近の若者、時にはアナウンサーにまで広がっている日本語の乱れを、「変化する日本語」なんぞという軽薄な表現であっさりと片付けてはいけないと、頑なに思い込んでいる路地裏税理士は、誰にもぶつけられない不満を事務所の片隅でぶつぶつと呟いているのである。
 そして、ただ悲憤慷慨しているだけだけではだめで、やっぱりどこかで「いきどおり」の姿勢を示す必要があるのではないかと、密かに(本当に密かになんだけれど)心に決めたのである。

                            2004.04.25    佐々木利夫


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