煮詰まる

 普通に使われている言葉なんだけれど、どこか使われ方が変だと思うようなケースがいくつかある。この「煮詰まる」も最近気になりだしている一つだ。
 このごろこの言葉は、「追い詰められる」というような意味で使われるような気がしてならない。「煮詰まって」そして「辛抱できなくなり」「切れ」「爆発する」のである。

 言葉が勘違いにしろ慣用化にしろ、場合によってはこっちが間違って覚えていることだってあるわけだし、記憶と違った使われ方を聞いたとしてもそれほど目くじら立てて気にすることはない
 しかし、最近、テレビのアナウンサーの発言でこの言葉を聞いたものだから、急に自分の記憶に自信がなくなってしまった。

 でもこの煮詰まるという言葉は、多種多様な意見や見解が、多人数と議論を重ねることによって一つの方向にまとまっていくことを表していたのではなかっただろうか。だから「煮詰まる」ということは解決が近いことを意味し、ハッピーエンドが目の前にあることを示しているのだと私は理解していたのである。

 にもかかわらず最近の使われ方は、こうした他人との議論の場を示すのではなく、もっぱら自分の心の内側だけの問題、つまり、自分の気持ちの中で解決がつかないまま、にっちもさっちもいかなくなっている閉塞状態を表しているようだ。

 言葉は時代と共に変化していくものであり、場合によっては本来の意味とは別の意味に変わってしまうことも考えられなくはない。
 「煮詰まる」の本来の意味は、煮物などで水分が蒸発して無くなっていくこと、そしてその分だけ味が濃くなっていくことを言うから、「水分が失われていく」→「余裕が無くなる」→「心が干からびていく、苦しさが濃くなっていく」というように理解できなくもない。
 でもこの使い方は用法の変化なのではなく、誤用であるような気がしてならない。

 言葉の変化は多くの場合一過性であることが多い。若者が共通の土台を持ちたいと願って独自の表現を開発したり、携帯メールで絵文字が流行したりするのは、それを仮に理解できない者が居たとしてもむしろ微笑ましいことだと思う。

 しかし言葉は共通の理解を成立させるための基本的な約束事である。政治でも外交でも時に言葉は玉虫色と言われ、翻訳のニュアンスのせいにされるなど、必ずしも一義的に決め付けられない場面が多々見られるけれど、それでも言葉は互いの理解の基本である。違ったままで会話していたり理解したりしていたのでは、やっぱり混乱してしまうのではないだろうか。

 言葉を大切にするということは、言葉で表現された文化を大切にするということだけなのではない。我々が何かを考えるという背景には、必ず言葉で考えるということが先行しているのだから、日本人として考え、日本人として行動する根っこには、日本語を大切にするということが必須なものとして要求されていると考える。

 とは言え、最近の「尻上がり言葉」ようになんでもかんでも疑問文のように語尾を跳ね上げて相手に無理やり自分の意見を押しつけてしまうような表現だとか、「わたし的には…」などのように色んなところに「的」をつける風潮などには、「なんとかならんかい」と、つい誰にともなく抗議したくなるのは、世の中について行けなくなりかけてきた老人の独り善がりの戯言なのだろうか。