お金の効用


 「金がものを言う世の中」なんて言うと、金の亡者の戯言みたいに聞こえるかも知れないけれど、そうでない世の中なんて現代ではあり得ないと考えてもいいのではないだろうか。
 なんたって昔から「金が敵」の世の中だし、金さえあればなんでもできるという風潮は、その辺の女子中学生あたりに聞くまでもなく、国も社会も会社も大人も当然のこととして疑問すら湧かない時代になっている。

 もちろん、金で命や愛情や信頼は買えないなどと、したり顔で論ずる者もいるけれど、そう言う者ほどうさんくさく思えるのも、これまた現実である。

 本当に金で買えない命や愛情や信頼なんてあるのだろうかと、ふと振り返って考えてみると、そんなにしみじみ考え込まなくたって、確かに見掛け上多少薄汚れた感じのしないではないし、絶対という言葉をつけていいかと問われればそれにも躊躇するけれど、命も愛情も信頼も、結局は金で解決できるものが大半なのではないかと思う。

 確かに金で解決できないものがないとは言えない。しかしそうした場面は、結局金以外でも解決できない場面なのではないだろうか。

 「金で解決する」という現象を多くの(多分あんまり金持ちではない)人は、「札びらで他人の頬をひっぱたく」というように理解しがちであり、そうしたことに抱く嫌悪感が「金」に対する反発につながっているのではないだろうか。

 でも、よく考えてみるとそれは金を使う人の行動というか使い方の問題であって、金そのものの特性ではないだろう。

 それは、仮にその金が「太った豚野郎からの金」ではなくて、「優しいあしながおじさんや無垢の天使が与えてくれた慈愛の金(そしてかつ返済しなくてもいい金)」だとするならば、答えは一層はっきりしてくるのではないかと思う。

 でもこんなフレーズにぶつかって、妙に納得してしまったことがある。
 「お金っていうのは、……うろたえるほどの額面じゃないとお金として機能しない」(玄侑宗久著、化蝶散華p138)。
 ただ、どのぐらいの額になると人はうろたえ始めるのだろうかと考えてみると、結局は人さまざまという結論にならざるを得ない。まあ、庶民感覚で言えば、一兆円なんてのは金の単位にはならないだろうから、宝くじの最高額あたりが上限であろうか。そして下限はとなるとまさしく千差万別であり、数万円、数十万円だって入手方法によってはけっこううろたえる人が出てくるのではないだろうか。
 そうすると「うろたえるほどの額面」で妙に納得したと書いたものの、それは結局実感の伴わない言葉だけの世界だと気づく。

 例えば金を万能と呼ぼうがはたまた不浄と呼ぼうが、その基準は「多数としての人」にあるはずである。神のような個人を基準にしたり、醜悪な悪魔を基準にしてそうした価値基準を作り、それがその個人にとって正しいことだと証明されたとしても、それは私とは無関係であり、もっと極端に言えば世界中の誰とも共有できないナンセンスな価値基準になってしまうからである。
 そうしたとき、向こう三軒両隣の人々を説得するお金の基準としては、「金はあったほうがいい」、そしてそれ以上に「金は万能」だと意義付けることのほうがきわめて分かりやすいであろう。

 命と直接結び付いている医療で考えてみよう。

 保険で認可されていない外国の癌特効薬を、私的に輸入して治療に活用すると、現行の保険制度で認められていない重複治療とも相俟って、極めて多額の医療費がかかるという新聞記事を最近読んだ。そして金の切れ目が治療の切れ目であると言う事実も…。
 横文字や聞いたことのない医学用語の検査や治療が横行し、そうした治療を受けることができるかどうかは、単に医療費のみならず、交通費や付き添い費やを含めてすべて金に係わってくるし、遺伝子治療や臓器移植など、世界最前線の治療を世界最前線の医者から受けるとなると、金のある者とない者の差は歴然としている。

 昨年で終了し、年が明けて総集編もどきで放映されているテレビドラマ、「Dr.コトー診療所」は、人口1千人足らずの都会の病院まで6時間もかかる離島の医師の物語である。優秀で人情味溢れる主人公は時に紆余曲折があっても、島の人々から信頼され不可能な治療を次々とこなして行く。

 でも、現実は違うのである。どんなに感動的に描いたとしても、それはドラマとしての命であって、僻地で離島の患者は、都会の大病院の患者とは決定的に違うのである。僻地医療のドラマは都会のそれを「機械任せの非人間的な治療」と位置付けることによってかろうじて成立する、架空の物語でしかないのである。大学病院の優秀な教授が、人間的にも尊敬できる人物だったら、それだけで壊れてしまう、そんな脆い物語なのである。

 テレビ番組などで、若いタレントがアフリカやブラジルの奥地に住む少数民族と1週間ばかり暮らして、自然に触れただの別れが辛いなどと涙を流し、人間として現地人と共感が湧いたみたいな言葉を聞いていると、どうも居心地が悪くなる。

 ただこうした番組がけっこう後から後から手を変え品を変え出てきて、それなり人気があるというのは、逆に貨幣経済の成立していない社会に我々があこがれていることを示す証左なのかも知れない。

 さりながら、金は万能であるがゆえに、反作用もつきまとう。金を稼ぐということは、たいていの場合けっこな努力と時間を必要とするし、それなしに金を確保しようとするには、例えば犯罪であるとかギャンブルなどと言った危険を覚悟しなければならない。

 もちろんなんの苦労もなく生まれながらの金持ちという人もいるし、降って湧いたように外国のおじさんから遺産が転がり込む人もいるだろう。ただそう言う人は、逆に金を得るための努力の味わいを知らないという不幸を持つことになる。

 努力と報酬とは必ずしも直結しているものではないけれど、私のような凡人にとっては、こうした努力そのものにもそれなり満足感を味わうことができる。

  結局金は万能だとは思うけれど、そのために払う様々な犠牲とどこで折り合いをつけるのかということであろうか。

  その敵(かたき)たる金を生業としている税理士ではあるが、自分の身を振り返ってみると、金というのは得るために時間が必要となるし、それを使うにもまたそれなりの時間が必要になるんだとしみじみ感ずる。

 無理やり豪華客船で世界一周、世界の酒と料理味わい放題なんて考えてみたところで、現在のままの生活と比べて羨ましいとはとても思えない。

 そんなことより、時に仲間と手作り鍋で安酒を交わしながら世を憂い、場末のスナックでだみ声張り上げることのほうが性に合っているし、魅力がある。

 もちろん場合によっては、「金さえあれば」と悩む事態が将来発生しないとも限らないし、「備えあれば憂いなし」も現実だとは思う。けれども「備え」ばっかりの人生というのは、貴重な時間を「備え」のために放棄していることに他ならないのではないだろうか。そして、そもそもどこまで「備え」たら、「これでいい」となるのだろう。人は「うろたえるほどの額面」になるまで備え続けるつもりなのだろうか。

 ひとりの事務所の生活は「起きて半畳、寝て一畳」である。いい言葉である。いい響きである。いい慰めである。…もしかすると、素晴らしく、いい言訳である。
                    2004.1.13    佐々木利夫