貧乏な木こりが山で木を切っている最中に誤って斧を近くの泉に落としてしまう。困っている木こりの前に泉の精霊が出てきて、「お前の落とした斧はこれか」と金の斧を差し出し、違うと言うと次に銀の斧を出す。木こりは金の斧や銀の斧の誘惑に負けずに自分が失くした鉄の斧を取り戻し、正直のご褒美に精霊から金銀の斧も同時にもらうのである。

 昔話はどうして善良な正直者が貧乏で子供がなく、悪人が金持ちと言う設定になっているのかいつも気になっているけれど、ここではそれはおいてくことにしよう。
 ただ、神様はどうしてこんな残酷なことをするのだろうかと、ずーっと不思議に思っていた。貧乏な木こりは正直かも知れないが、神様のように立派な人物ではないだろう。木こりの仕事をどうこう言うつもりはないが、普通に当たり前に過ごしている一般人である。真っ正直な人物だと言ったところで、満点の正直なんて想像がつかないし、ある人が生涯嘘をついたことがないなんて話を聞いたら、そのことのほうがきっと嘘だと思う。

 外国での子どもを使ったテレビドキュメントを見たことがある。おもちゃの電車を走らせている部屋の中に子どもに背を向けさせて座らせ、先生がその部屋から、「少し席を外すけど、絶対後ろを見ちゃダメだよ」と子どもに言い聞かせて出るのである。別室でのモニターには、子どもが必ず後ろを振り返る姿が写っている。戻ってきた先生の質問に子どもは必ずこう答えるのである。「後ろ見なかった?」、「うん、見なかったよ」。

 人は生まれながらに嘘をつくのである。良いとか悪いとか以前の問題として、人は嘘をつく動物なのである。嘘を悪いことだと私たちは子どものときから教わってきたけれど、それは嘘をつくことが人間の本性であることの裏返しなのである。

 さて、木こりの話に戻ろう。なんたることか、この場合の精霊(神様)は木こりから嘘を誘導しようとしているのである。
 正直であることを望ましいことだと教えることは正しい。嘘をつかないことを人間関係の基本におくこともいいと思う。でも嘘をつきたくなるような場面設定をしておいて、弱い人間を試すようなことをする神様は、本質的に神様としての素質がないのではないかと思うのである。

 この泉の神様のやったことは、犯罪捜査にだって原則禁止されている「おとり捜査」と同じことである。道端に財布を置いて、通りすがりの人がそれを盗むか警察に届けるかを遠くから見つめているのと同じことなのである。
 あなたが木こりだったとしたら、何の迷いもなく、一直線に鉄の斧に届くだろうか。結果として金の斧も銀の斧も自分のものではないと否定したかも知れない。正直は人の宝なのだと自分に言い聞かせたと思う。でも、神様でない普通の人間であるあなたなら、たとえ正直であろうと努めたとしても悩んだはずである。迷ったはずである。こころが揺れたはずである。

 この神様は卑怯である。弱い人間の弱い心を、札びらで試したのである。確かに木こりはその誘惑に負けなかった。それでも、落としたのが金の斧だと意思表示すればそれが手に入るような甘言を、この泉の神様は木こりに向かって口走ったのである。その罪は、たとえ金銀の斧を渡すくらいではすまないのである。
 そしてここでも神様は誤りを犯している。正直の報酬は「正直そのもの」なのである。正直にご褒美がつくなんて、どう考えても変なのである。

 しかも、もし木こりがその誘惑に負けていたら、木こりは一生、正直者でないというレッテルを張られてしまうのである。他人から張られるのならまだいい。自分で自分に張らなければならないのである。それも、通常なら決してありえないような状況を神様から無理やり設定され、そのテストにしくじったというそれだけの理由でである。

 「試されてくじけたのはそいつが弱かったからだ」。それはそうだ。そのとおりだ。でも人間はそんなに強くないのである。弱いのが人間で、もろくて心の定まらないのが人間の本当の姿なんだと私は思う。
 だから、どうか無理やりその弱さを試すようなことはしないで欲しいと思うのである。ましてや神様に試されるなんてことは、決してあって欲しくないものだと・・・・・・・真剣に考えているのである。

 

                       2004.07.19    佐々木利夫


             トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



金の斧、銀の斧