オオカミが来たといって人々を欺いた少年をめぐるこの物語の寓意は、「嘘はわが身に降りかかる」、「嘘ばっかりついてると誰からも信用されなくなるよ」である。それは結局その少年を助けてくれるものがひとりもいなくなり、とうとうオオカミに食われてしまったからである。

 なぜ少年がそんなにも執拗に嘘をつき続けたのかという、もう少し別の問題も興味あるところであるが、それよりもなによりも、この物語は前提が私たちの理解とは違っている。

 少年の「オオカミが来た」という声に村の人々が反応したのは、少年の危機を救うために村人が集まってくるという状況を指していると普通は思われている。

 でもイソップ物語「うそつきな羊飼い」では、村人は少年の叫びに、飼っている羊を避難させ同時に自分も逃げることになっている。つまり、オオカミから逃げなければならなかったのは村の人々自身であり、飼っている羊だったのである。オオカミが村に入ってきたら、少年も食われてしまうかも知れないけれど、被害者となるのは村人に飼われている羊であり、村人そのものなのである。だからこそ、「オオカミが来た」はその村にとってのとても重要な情報だったのである。

 さてそうだとすると、我々はこの物語にとんでもない誤解をしていたことになる。「オオカミが来た」という少年の叫びは、「私を助けて」というメッセージだったのではなく、人々に「逃げろ、羊を避難させろ」という信号だったのである。確かに少年は嘘をついた。度重なる嘘に、その情報の信ぴょう度は徐々に下がっていった。

 でもその少年からの情報は、たとえ価値が下がっていったにしろ、村にとっては大切な情報だった。無視してはいけない、命と生活にかかわる重大な情報だったのである。

 かくして少年の言葉を信用しなかった村の人々は、その飼っている羊のことごとくを襲ってきたオオカミの餌食にされ、村人の何人かは食われてしまったはずである
 もしかしたら僅かでも少年の叫びを真実だと信じた人がいたかも知れない。おお、信じるものに幸いあれ、その人は自らの命が救われ、羊をオオカミの被害から守ることができたのである。

 さてさて、物語はもっと残酷になる。このオオカミは羊を餌食にしただけではない。少年をも食い殺した人食いオオカミである。少年の叫びを嘘だと思って無視したということは、その叫びを村の人々は聞いていたことを示している。皆に聞こえるところで少年は叫んだということである。にもかかわらず少年はオオカミに食われてしまった。そのことは、逆に言うと無防備になっていた村人そのものだって食われる可能性があったということである。村人が食われたという風には書かれていないから、そこまで話を広げるのは間違いかも知れないが、その危険性は十分にあったとはいえるだろう。

 しかも、これも想像にしか過ぎないけれど、村人の全員が少年のほうをチラリとも見なかったとは信じられない。何人かは少年の姿を見たはずである。そして実際にオオカミが来たことを知り、今回に限れば少年は嘘をついていなかったことを多くの人が理解したはずである。
 にもかかわらず、住民はこの「常習の嘘つき少年」を助けなかったのである。最初に食われたのは恐らく少年である。オオカミに食いちぎられ死んでいく少年を、村人は見ていたのである。それはもしかしたら、自分の危険を避けるために必死だったからなのかも知れない。場合によっては嘘つきの報いだとばかりに村人は平然と見過ごしていたからなのかも知れない。いずれにしても少年は誰からも助けられることはなく、村は大切な羊と何人かの村人を失ったのである。

 愚かなのは少年なのではない。信じることを忘れた村人たちである。どんな警告にも耳を傾け、危険に対する万全の対策を、人は常に備えておかなければならない。それを怠った報いを、この物語は伝えるているのだと、私は思っているのである。

 教訓〜
台風や地震のなどの命にかかわる情報は、なんど外れても信じなくてはいけないよ。



                               2004.07.12    佐々木利夫


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