「女房からCDを贈られ、ファンになってしまった」と知人から聞き、その言葉に引きずられてファンになってしまった音楽家がいる。寺井尚子、ジャズバイオリニストである。

 クラシックからいきなりポップスに移ってしまった私の音楽遍歴の中に、実はジャズの期間は含まれていない。若い頃にディキシーの有名曲を少し聴いたかな、という程度である。
 だからジャズを理解しているなんぞと冗談にも言えないこの身ではあるが、ジャンルとして理解しているというのとは別に、その曲であるとかその演奏という限定されたものであっても、聞いていて心地よいと感じるのならば、それもまた音楽の楽しみ方の一つであろう。

 とは言っても、CD買いまくるというほどのファンではない。インターネットの中に彼女の演奏の動画のページを見つけたのである。
 ビールメーカーの提供による番組なのだが、1メガバイトの送信によるフル画面のその演奏は、ひとりの事務所をひとときピアノバーの片隅に変えてくれるし、しかもデスクでひとり傾けるジャックダニエルに、よく馴染んでくれるのである。

 月に2−3曲が追加されるだけなので、同じ曲を繰り返し聴くことになる場合も多いけれど、ジャズとバイオリンという、私にとって始めての組み合わせは、「なかなかいける」と、密かに喜んでいる。

 バイオリンとピアノとギターとベースだけのシンプルなアンサンブルは、時に激しく、時にしっとりと、嬉しそうに、寂しそうに、路地裏の名も知れぬひとりの客のために時間を止めたまま静かに語りかけてくる。
 司会者もいない。拍手もない。静かに始まり静かに終わる、モノトーンのようなその映像と演奏は、CDで音だけを聞くのとはまた違った雰囲気を伝えてくれる。

 最近、途中のピアノが、なぜか気になるようになってきた。ピアノの音色にしたところで、私にそれを語るほどの力のないことは、ジャズ同様である。
 それにもかかわらず、バイオリンと競演しているピアノの音が気になるのである。それも特に高音部の、鍵盤を叩くだけのような乾いた音が、なぜかこころにしみるのである。

 乾いたピアノの音が、理由もなくしみてくるのである。少し酔ってきて、自分の中に沈もうとしているこころに、静かに入り込んでくるのである。

 ピアニストの名は北島直樹とあった。私の知らない人である。

                            2004.04.25    佐々木利夫


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乾いたピアノ