ポピュリズムとは通常、大衆迎合主義と訳されている。この「迎合」という言葉は、自分の考えを曲げてでも他人の気に入るようにすることを言うから、そのためにポピュリズムという言葉も良い意味での使われ方はしていない。

 最近の読売新聞(16年4月17日)が同社の編集員の「世論を考える」という解説は、「小泉首相はポピュリストの評がつきまとっている(し、事実いくつかの)政治手法はポピュリズムにほかならない。しかし、外ではポピュリストとは一味違う顔を見せてきて、これが小泉政権を背後から支えているように見える」とあった。
 「大衆に迎合しない毅然とした政治」みたいな表現は、なんとなく「孤高の正義」を実践しているようで、いかにも格好がいい。

 でも少し引いて考えてみると、この文章には、末尾の小泉政権を支えているのが誰かという主語が抜けていることに気づく。

 文章全体からいって、その支持が「大衆」でないことは明らかである。なぜなら、「大衆迎合」とは、大声を張り上げ、いかにもそれが世の中ですと思わせるような一部の声に従うということではなく、民主主義のルールでいうなら、まさしく過半数の国民の声に従うということを意味するからである。

 筆者には恐らく「大衆と言うのは常に判断や方向を誤るものだ」という確信みたいなものがあるのではないだろうか。
 だから「ポピュリストとは一味違う顔」というのは、大衆の意見に流されない顔という意味で使っているのだと考えられる。

 さて、ここから疑問が始まる。つまり、「大衆もまた判断を誤るものだ」という前提と選挙と言うものをどう結びつけて考えれはいいのだろうかという疑問である。

 ポピュリストでない首相とは、選挙の間隙を縫って、国民に支持されない政策をうまくごまかしてやり遂げることとでも言うことになるのであろうか。選挙にあっては当面それほど重要でない人気取りの方向に国民の目を向けさせ、そうした偽ものの支持をうまく利用して、あからさまに示したのであれば恐らく国民が承認しないであろう「国民にとって正義だと(一国の首相が)考える政策」を密かに取り続けることなのだろうか。

 だとしたら、この文章の主語は国民でないことになる。それでは誰か。一番分かりやすいのは「正しい国政のあり方を正当に理解している人達」という意味である。
 ポピュリズムを、「大衆」と「迎合」の合成語として位置づけるのは変なのではないか。「迎合」というのは、権力を持つ一部の者の意見を受け入れ、それに反する他の意見を封じてしまうことを意味しているのではないか。

 国民の過半数が右を選ぶとしたら、それはそれで「正義」になるのではないか。その国民の支持する右を国民から選ばれた政治家が「誤りだ」と考えることは自由だとしても、それを国民に黙ったままで是正しようとするのはその政治家の驕りなのではないのか。

 衆愚政治という言葉がある。大衆の愚かさを前提とするなら、選ばれた政治家はその衆愚を代表することになるわけだから、その国家もまた愚かである可能性が大であり、場合によっては亡国につながることだってないとは言えない。
 それはそれで良しとするのか、高潔な思いに燃えた祖国愛の英雄は、表面に現れた国民の意思に反してでも正しいと信ずる国の命運を自ら開拓すべきなのか。

 結局はポピュリズムなんぞと一言で、ある種の現象をしたり顔で定義づけたとしても、そこから答えは見えてこないような気がする。
 大衆という得体の知れない対象を相手にする場合、大衆をコントロールして己の意のままに動かすという方向を目指すのだとするならば、それはヒトラーも同じだったし、結果無責任で大衆の望む見かけ上の利益だけを提供して自己の保身をむさぼることを意味するならば、世界に群雄割拠して独立した国の元首の中にだっていくらでもその例を見ることができる。

 つまりポピュリズムという言葉は、何を意味し、どういう場面に使うときにその本来の意味を発揮するのか、そして、それにより人に何を伝えることを目的として発するのか・・・・・・。
 こんな風に考えてくると、デモクラシー(民主主義)というのは、「少数意見にも耳を傾ける」という面もあるけれど、結局は多数が正義であるというシステムで成り立っていくのだから、ポピュリズムとどこが違うのか分からなくなってくる。
 デモクラシーは良いけれどポピュリズムはダメ・・・・・・、そんな使われ方がなんとなく正論のような顔をして世の中を徘徊してきている。

 言葉には決まった意味がある。それはそうだ。だから人は言葉で意思を伝えあうことで友人、家族、社会、国家など、様々な集団を作り上げてきたのだから。
 でも、世の中には良く分からないままに一人歩きしている言葉のなんと多いことか。分かったようなふりをして使っている言葉、無批判に信じることが当然だと要求されている言葉、玉虫色でどうにでも解釈できるような言葉、難解で専門家しか理解できない言葉、理解できないのは馬鹿だからだと極めつけられているような言葉、聞き返してはいけないと思われているような言葉・・・・・。

 人は言葉で語るけれど、もしその言葉が理解されておらず、言葉としての共通の地盤をもっていないとしたら、それは会話になるのだろうか。
 そして、それ以前にもっと怖いと感じていることがある。人は他人の話を聞こえているけれども聞いていないような気がしてならないのである。
 

                            2004.05.29    佐々木利夫


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